あなたの救いは神の誉れ ヨハネ 3:16

ヨハネの福音書3章16節を読んでいただきました。もう一度、読んでみましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」多くの人が、この御言葉によって神様の愛を知りました。たくさんの人が、この御言葉によってイエス・キリストを信じ、神の子とされました。ここで独り子と言われているのはイエス様の事です。神様が、イエス様をお与えになった。それは、神様が本当に世を、世の人々を愛しておられるからだ。救い主イエスを信じる人は誰も滅びることがない。永遠の命を得る。永遠の命とは、いつまでも続く命という意味であるとともに質的な意味でも最高の命、最高の人生という意味です。今日は、この素晴らしい御言葉を読み解きたいと思います。そもそも救いとか、悟りとか、あらゆる宗教的な出来事、体験の主役は誰なのだろうか。わたしたち日本人に身近な仏教で言えば自分自身、人間が主役という事なのではないでしょうか。「我、昇り来る朝日の中に大日輪菩薩を見たり」。わたしが見たのです。如是我聞深般若波羅蜜多・・・。私がと始まっています。私が修業をし、私が悟り、私が体験し・・、と私が主人公の出来事なのです。しかし、真理を伝える、と私たちが信じている聖書を通して神様は、私がではない。「神が、神は」、神が主人公だと伝えます。「神は・・世を愛された」。主体は神様であり、事の始まりは神様である。神様の出来事であり、神様の物語なのだと語るのです。神様が世を、そこに住む私たちを愛された。それが出発点なのだと語るのです。神様は世の人々を愛された。女性も男性も、LGBTの人もいます。生まれたばかりの赤ちゃんも、子どもも、働き盛りの人も、老年に達した人もいます。立派な業績を上げている人、平凡な人生を送る人、世を楽しむ人、世を恨む人、褒められるような道徳的な人、悪いと知りながら、それを止められない人。輝かしい過去を持つ人、人に知られたくない過去を持つ人。本当にさまざまであり、一人一人みんな違うでしょう。しかし、神様はひとまとめにして、この人もあの人も、みんなを愛される。そして、その愛はイエス様を送らずにはいられなかったのです。なぜでしょう。「独り子を信じる者が一人も滅びないで」とあります。つまり、神様が愛しておられる世のすべての人たちが苦しんでおり、そして、滅びへの道を歩んでいるということです。いや、もう滅びの道を歩んでいるからです。19節に、人々は光よりも闇の方を好んだとあります。いや、わたしは闇なんか好んでいない。そう仰るでしょう。腹黒さとか、底意地の悪さとか、そして、そのような心から出てくる暴力とか乱暴とか、そのようなことがここで言っている闇であるならば、そんなものを好む人はいないでしょう。いたとしても例外中の例外でしょう。ここで闇の方を好むというのは、神様よりも自分の方を好む、神よりも人よりも自分の方を先にする。まず自分。そういう在り方を言っています。刑法には緊急避難という規定があります。船が沈んでしまい、救命具が一つだけ。二人が捕まったら沈んでしまう心もとない救命具です。二人の人が必死につかまろうとしている。その時、一人がもう一人の受けを引き離して自分が救命具につかまり、自分もと近づく相手を蹴っ飛ばして自分だけ助かった。その場合、自分だけ助かった人は罪に問われるかというと問われないのです。自分は良いからあなたが助かりなさい。それは美談になります。でも、そうならない方が圧倒的に多い。でも、法律は人間とはそのようなものだ。本性は自分第一で、自己中心的なものだと知っているので、このような場合は罪に問えないのです。船の遭難はあまり体験しそうもありませんけれど、同じようなことが日々起きているのではないか。目の不自由な人が道の真ん中で困っていても、今忙しいから誰かが助けてくれるだろうとそのままにして行ってしまう事はないのだろうか。カヌー競技の選手で、後輩が代表に選ばれそうだと知って密かに飲み物に禁止薬物を入れて失格にした。ひどい話だと憤慨しながらも、自分の出世や昇給のためにちょっとした、この程度は誰でもという事をしたり、ふと、そうする誘惑に駆られることはないだろうか。自分の不全感や不満の故に人を攻撃したりゴシップを流したり、でも、あの人にはこんなところがあるのですよと引き下げたりしたり、そうする誘惑に駆られることはないだろうか。人に非を指摘された時に逆切れしたり、なんだかんだと合理化して自分をかばう事はないのだろうか。イエス様は、人を憎むならば神の目には人を殺したのと同じ、姦淫の目で見るならば神の前には姦淫したのと同じと言われました。した事よりそれを生み出す心を見られたのです。そして、私たちみんな身に覚えがあるはずだとおっしゃったのです。そのようなわたしたちを神様は愛してやまなかった。イエス様を、救い主を送らない事は出来なかった。そして、御子イエスを送って下さったのです。最愛の御子を、たった一人の御子をです。子どもが何人いても、一人ぐらいは、などと思う人はいないでしょう。神様にだってつらい、つらい決断だったのです。独り子を失う事と、私たちを愛する思いとを天秤にかけたのです。そして、神様は私たちを救うために、むしろ独り子を失う事を選ばれたのです。失うと言いました。イエス様は、失われるために生まれました。死ぬために生まれたのです。そんな人がいるでしょうか。生きるために生まれてくる。そうでしょう。でも、イエス様ははじめから死ぬために生まれたのです。イザヤ書53章にイエス様が世に来て下さった意味が預言されています。5節に、「彼が刺し貫かれたのは 私たちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは 私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって 私たちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」とあります。続けて6節に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。その私たちの罪をすべて 主は彼に負わせらあれた。」8節には、「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか 私の民の背きの故に、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」、11節には、「わたしのしもべは、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」さらに12節には、「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」と書かれています。これらは、すべてイエス・キリストの身に起こる事、起こった事です。イエス様はこのために生れて来られ、父なる神様はこの事をさせるために独り子を世に送った、その事が書かれているのです。そうするとどういう事でしょうか。すべて主語は神様です。神は、世を愛して、神は、独り子を送られた。私たちは自分で救いの道を切り拓くのではありません。修行して、儀式に参加して、善行をつんで、頑張って赦されるのではありません。既に、赦しは神様が供えて下さいました。それがイエス様の十字架での贖いです。私たちは何をするのか。今ある私のままで、神様が拓いて下さった道、神様が準備して下さった救い、イエス様を感謝して心に受け取ること。イエスは、わたしの救い主と告白する事だけなのです。あなたの救いの物語は神様の物語です。あなたの救いは、あなた以上に神様が渇くほどに望まれている事です。あなたがイエスを信じる事、それはあなたの出来事であると同時に、いや、それ以上に神様の出来事です。あなたの救いは、あなたの誉れではなく神様の誉れなのです。

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