あなたは聖なる地に立っている 出エジプト 3:1-6

モーセは、厳しい時代に生まれた人でした。大歓迎されてエジプトの移住したユダヤ人でしたが、その後政権が代わり、彼らは危険な民族として迫害されるようになったのです。そんな中で、モーセは不思議な神様の摂理により、ユダヤ人でありながら王家に迎えられて育ちます。しかし、ある時、同胞のユダヤ人がエジプト人にいじめられているのを見て怒りを感じ、そのエジプト人を殺してしまいます。翌日、今度はユダヤ人同士が争っているのを見て仲裁に入ります。すると、「お前はあのエジプト人を殺したように、この私を殺すつもりか」と言われます。さては、あのことが知れたのかと恐れてモーセは王家から逃げて、それから40年の間荒野に隠れて生活するようになったのです。そんなモーセに起こった出来事が、今日読んだ聖書個所です。舅の羊の世話をしながら段々と荒野の奥の方に来ました。見渡す限りの地平線。空は、真っ青に染まっていたでしょうか。もちろん人っ子一人いません。ちょっと一休みと腰を下ろしていたでしょうか。それとも、羊たちをどこに導こうかとあたりを見回していたでしょうか。モーセは不思議な光景を目にします。柴が火に燃えているけれども燃え尽きないのです。この柴は、芝生の芝ではありません。そうではなく、小枝のようなものです。荒野といっても何もない砂漠ではなく、背の低い灌木のようなものが点在しています。モーセは、それが燃えていることには驚きませんでしたので、灼熱の太陽にあたって枯れた灌木が燃えることはあったのでしょうか。でも、燃え尽きないのです。不思議なことです。モーセは、近づいてみる事にました。周りには誰もいないと思っていましたが、そして、事実人は一人もいなかったのですが神様はそこにおられました。そして、モーセが燃える柴に近づくのをご覧になって呼びかけたのです。「モーセよ、モーセよ。」そして言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」さて、ここでもう一歩踏み込んでモーセのことを考えてみたいと思います。彼は、どんな思いで舅の羊を飼う毎日を送っていたのだろうか。40年前、彼はエジプトの王家の一員だったのです。でも、ユダヤ人の同胞を愛する気持ちを忘れることはありませんでした。両親に聞いたであろう、神様が必ずエジプトから、奴隷の状態からユダヤ人を救い出すという約束を聞いていたに違いありません。そして、彼一人、他のユダヤ人とは違う王家の一員という恩恵に浴していましたが、自分がユダヤ人であること、神の民であることを忘れることはありませんでした。そんな彼が、今仲間のユダヤ人から遠く離れて荒野にいるのです。人生を振り返って、周りの景色を眺め、「いやー、私はまさに人生の荒野にいる」と感じていたのではないでしょうか。荒野、無味乾燥な、無意味であるかのような私。そして、私の人生。そんな気持ちでいたと思います。しかし、そこは神の山だったのです。神の山、ホレブだったのです。このことは、わたしたちに何を伝えているのでしょうか。私たちは、何事もうまくいっていている、そのようなところこそ神の山だと考えがちなのではないでしょうか。病が癒されたり、経済的に豊かであったり、就職したい会社や入りたい学校に受かったりしたときに「今、私は神の山、祝福の山にいる」と思うでしょう。それも祝福には違いないでしょうが、しかし荒野も祝福の場所であり、神の山なのだと伝えているのではないでしょうか。神様はどこにもおられる。神はどこにいるのかと思わざるを得ない状況の中にも神様はいてくださる。そして、モーセは、この荒野で初めて神様の声を聴いたことを思います。もしかしたら、いや、きっと荒野こそ最も神様に出会うことのできる場所なのではないか。もう万事休するかと思うときにこそ神様と深く、深く交わる事ができるのではないか。そんなことを思わされます。神様は、「あなたの立っている場所は聖なる場所である」とおっしゃいました。そこは、特別なところだ、神と出会う場所だという意味です。モーセは、意味のない日々を送っていると思っていました。自分の人生も意味を失ったと思っていました。しかし、神様の目にはそうではなかったのです。今あるその場所、今という、その時こそが聖なる場所だったのです。エレミヤ書29章11節からには、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」とあります。神様は、あなたの人生に計画を持っておられる。そして、それをよく心に留めて下っています。その計画には、荒野を通るという過程も含まれているでしょう。その時、どうするのか。12節、13節に、「その時、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。私に尋ね求めるならば見出し、心を尽くして私を求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」とあります。神様の計画の前に、そして、その計画の中で荒野を通る時に、ただただ立ちすくんでしまうこともできます。逃げ出すこともできます。しかし、神様は、そこに立ち止まり、私を呼び求めよとおっしゃっているのです。モーセは、履物を脱ぎなさいと言われました。その場所、その状況、その時をさげすんではならない、敬意を表しなさいということです。そこに踏みとどまりなさいということです。履き物を脱いで、はだしで立ちなさいとおっしゃったのです。今、子どもでもあまり裸足で外に出ることはありません。私が子どもの頃は、よく庭で裸足になって泥遊びをしたりしたものでした。そのような経験のない方でも海に泳ぎに行ったとき、はだしになって、砂の上を歩いたことはあるでしょう。はだしで歩くと砂の熱さとか、ざらざらした感じとか、いろいろなことが伝わってきます。今の、この状況の中に裸足で立ち、自分の足で、触れて、その状況を受け止めなさいと神は語ります。そして、そこはコンクリートの上ではなく地の上なのです。地は、命をはぐくみ育てるものです。スティーブ・ジョッブスの伝説の祝辞があります。大学の卒業式での祝辞です。彼自身は、大学を出ることはありませんでした。でも、伝説的な祝辞を残しています。三つのポイントでした。その中で印象的なこと、たくさんあるのですが、こんなことを言っています。私はアップル社を立ち上げたのだけれど、30歳の時に首にされた。自分が作った会社に首にされてがっくりした。当時は分からなかったが、アップル社に解雇されたことは、私の人生で起こった最良の出来事だったと後に分かった。成功者であることの重さが、再び創始者になることの身軽さに置き換わったのだ。何事につけても不確かさは増したが、私は解放され、人生の中で最も創造的な時期を迎えた。その後、自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げていたアップル社が解雇後に創業したNeXT社を1996年に買収することで合意。非常勤顧問として復帰した。2000年にアップル社のCEOに就任後、2001年にMac OS X発売、iTunesとiPodによって音楽事業に参入。そして2007年には、iPhoneを発表と、復帰後、アップル社を大躍進させた。彼は、自分が創設した会社から、追い落とされても、自暴自棄にならずに、もう一度、初心に立ち返って事業を打ち立て、NeXT社やピクサー・アニメーション・スタジオの設立に奔走し、どちらも、再び大事業に育て上げました。荒野に立たされましたが履き物を脱いで、地に立って、災いの計画ではなく、将来と希望を与える計画であることを信じたのです。私の、あなたの今を通して神様は私たちと出会われます。荒野でこそ、神様は語りかけてくださいます。履き物を脱いで、地に足をつけて、祈り、神の計画の展開に信頼しようではありませんか。最後に、み言葉を二つお読みいたします。ヘブライ人への手紙12章11節。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」もう一つ。ローマの信徒への手紙5章3節から5節です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たち与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

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