この方のなさったことはすべて素晴らしい  マルコ 7:37

今年は、一年の最後の日、12月31日が日曜日に当たっています。大みそかに終日礼拝を守るのは何年ぶりなのでしょうか。2006年以来のようです。11年ぶりということですね。皆さんは、「この方のなさったことはすべて素晴らしい」という今日のメッセージの題を聞いて、「ああ、あのことは本当に素晴らしい神様の恵みだった」と心に浮かぶことはあるでしょうか。ちょっとお隣の方と分かち合ってみてください。それでは、今度はあのことはしんどかった、と思い出すことはあるでしょうか。今度は、それぞれで思い巡らして下さい。プラスのこと、マイナスのこと、それぞれ思い出すことがあったのではないでしょうか。私たちの教会にもいろいろな事がありました。ゴスペル・フラ教室やだれでも食堂が続けられ、たくさんの方と出会えたこと。11月からはキッズ・クラブが始まったこと。祈り会では詩編を読み続けてたくさんの気づきが与えられたこと。毎週礼拝を守ることができたこと。新しい人との出会い・・。思わず微笑んでしまうようなことがたくさんありました。一方、よく教会に来て下さっていた、愛する方のご主人が亡くなられたこと。ご高齢のためになかなか教会に集えない方がおられること。怪我をされた方。病気を患われた方、また、患っておられる方。そして、お引越しをなさって、今までのようにいつも一緒に居ることは叶わなくなってしまった方がいらっしゃいます。それらは、悲しい出来事、つらい出来事です。しかし、私たちはすべてのことが神様の御手の中で起きているのだということに慰めを求め、それらのことを神様にゆだねます。でも、「この方のなさったことはすべて素晴らしい」という御言葉を読むとき、まず思い出さなければならないことは、今まで述べたような私たちの周りで起きた出来事もさりながら、私たち自身に起きたこと、起きつつあることに思いを向けるべきではないでしょうか。私は何度か神様は「にもかかわらず」の神様だというようなことを申し上げたことがありますが、今日の聖句を聴く時、私はもう一度、私たちの神様が“にもかかわらず”の神様であることに思いを致します。それは、私たちが罪びとであるにもかかわらず、神様のなさったことばすべて素晴らしいという事実です。もちろん、それは救いに始まります。先週の礼拝で私たちはイエス・キリストの誕生を祝いました。神様が、私たち罪びとを惜しみ、憐れんで下さって救い主を送ってくださった。そして、聖霊なる神様は私たちに罪を示し、イエスが救い主であることを教え、そして、そのことを信じて受け入れる信仰を与えて下さった。それは、神様の御業です。誰一人として聖書を勉強して、また悟りによってイエスと出会うことはできないからです。だから、私たちは、聖霊なる神様のなさったことは素晴らしいと、神様に向かって賛美することができます。そして、救われたものとして私たちは教会に連なる者とされました。これも素晴らしい。言葉に言い表せないほどに素晴らしい。教会はイエス・キリストの体です。(エフェソ 1:23)一つなのです。私はキリストのもの、キリストは私のもの。これが私とキリストの関係であり、それは教会において実態となっています。ですから、教会は裁き合わないのです。キリストは、もはや私たちを裁かないからです。教会は赦し合い、愛し合うのです。キリストが私たちを赦し、愛するからです。ヨハネの福音書15章で、イエスさまは私たちとイエスの関係をブドウの幹と枝にたとえられました。イエスさまが幹であり、私たちは枝です。イエスさまは幹として私たちを支え、力を与え、命を保つお方です。一体なのです。私たちは、そのような者としていただきました。そして、ブドウと枝の例えは、イエスが私たちに使命を与えて下さっていることを伝えます。これも素晴らしい。枝は幹から離れたら実を結ぶことはできず、枯れてしまう。これは分かります。しかし、幹も枝がなければ実を結ぶことができないのです。イエスさまは、私たち無しにはご自分の技をなすことができないのです。いや、私たちを通してすべてのことをなさろうとお決めになったのです。イエスは神様だから何にも寄らずに何でもできます。主はゲッセマネの園で彼を捕えるために来た人たちに、「誰を探しているのか」と問うたとき、彼らは「ナザレのイエスを」と答えました。するとイエスは、「私である」と答えたとヨハネの福音書18章にあります。この「私である」は、「私は『ある』というもの」という意味です。「私はある」何ものにもよらず、頼らず、支えられる必要もなくある者。何でもできる者であることを表す言葉です。主は、おひとりで何事でもお出来になるのです。しかし、彼はブドウの枝である私たちをお用いになる事とされました。福音伝道がそうです。救いのメッセージは教会によって、一人一人のキリスト者によって伝えられていきます。私は、それまで知り合いではなかったあるご夫妻と同じテーブルで食事をしたときに彼らが食前の祈りをするのを見て興味を持ち、「あなたたちはクリスチャンですか」と尋ねました。そのことをきっかけに彼らがイエス様のことや信仰生活の楽しさを教えて下さり、それがきっかけで私もキリスト者となりました。親かもしれない、友達かもしれない、私のように偶然、ではなく、神様の摂理によって出会った人によってかもしれない。誰かがイエスさまのことを伝えてくれて、主を信じるようになったのです。神様は、そのように一人一人のキリスト者を用いて下さる。素晴らしいことです。また、うれしいことや楽しいこと、つらいことや苦しいこと、すべてのことを通して、でも神様は私たちとともにいて下さるのだ、主が支え、励まし、慰め、勇気を与え、そしてどんな時も大丈夫、すべてのことが相働いて益とされるのだということをまず私たち自身が味わい、そのことによって人々にイエス・キリストは伝わっていきます。最初に、うれしかった出来事を分かち合っていただきました。つらかったこと、大変だったことは、場合によっては人に言いにくいこともあるかと思い、分かち合うことはしませんでしたが、思い廻らしていただきました。そのつらかったことに何かプラスの意味はないでしょうか。また、その体験の中にも神様がともにいて下さったことに思い至る事はないでしょうか。多分あると思います。多分と言ったのは、今思い至らなくても、必ずそれに思い当たる時がくるに違いないと信じるからです。「この方のなさったことはすべて素晴らしい」このことを信じて、来年生きる励ましの言葉、そして真理の言葉として今年のメッセージを締めくくりたいと思います。

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