これこそ人間的な生き方 ローマ 12:1

数週間、ローマの信徒への手紙から離れていましたが、今週からまた、この手紙を読み解いてまいりたいと思います。今日から12章です。パウロの手紙の構成には共通点がありまして、それは二階建ての家にたとえられます。イエス・キリストによって、神との間に平和がある。それは、すべて神様の恵みによってなされた。その出来事を、信仰をもって受け入れるとき、私たちは義とされる。それが一階の部分です。二階は、その事実があるから、そのことを土台としてこのように生きようではないかという実践面です。ファリサイ派の人たちや、多くの教えは二階と一階が逆転しています。善い行いを積んだり儀式によって身を清めて、その結果として神様との絆が回復する、和解すると教えます。神様は、それが全くの誤りであり、人の行いによって、人の側から扉を開けて神様に至るのではなく、神様ご自身が身をかがめて、人となって来て下さり、和解のためのすべてをしてくださったのだと語ります。今まで読んでまいりました1章から11章は一階にあたる部分です。8章まで神様の愛と恵み、信仰による義を語り、9章からはその愛と恵み、義がユダヤ人と異邦人のすべてに及ぶという神の知恵を語っていました。そして、そのすべてを受けて、「こういうわけで」と二階に上がります。必ず一階を通った人だけが二階に上がる。神様の愛を知り、自らの罪を知り、イエス・キリストにある赦しを知り、信仰によって義とされた人が二階に上がるのです。だから、パウロは「兄弟たち」と呼びかけます。
そして、12章1節と2節で、これから語られるキリスト者としての生活の心得の総論を語り、3節以下が各論、つまり教会人、社会人、また市民としてどのように生きればいいのかが語られます。そして、これはカギになる事柄ですが、毎日の私たちの生活について、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と語られます。これをいつも頭に置いて読み進めなければなりません。毎日の生活は礼拝なのだ、日常生活の中にこそ礼拝があるのだということです。神学生時代、いろいろな教会を回りました。アメリカの何州の教会だったか覚えていないのですが、田舎の教会だったことだけは覚えています。教会の入り口の外側には「礼拝にようこそ」と書かれていました。そして、内側には「礼拝に出かけよう」と書かれていたのです。出かけようの方は、serviceとありました。サービスとは本来神様に仕えることを意味します。ですから、人間関係で仕えることは神様への礼拝なのです。その礼拝は、自分の体を献げるささげることだと読みました。捧げると訳されている言葉は、本来“ある人の側に置く、自分の側にあるものをその人の側に移す”という意味です。つまり、捧げるとは、今まで自分の人生は自分のもの、時間も授かった得意なことも、こうしたいという希望も自分のもの、自分で決めて、変えたいと思えばいつでも変えられると、そう生きてきた。でも、それらをすべて神様の側に置こう、移そう。それが神様に捧げるということです。献金を考えるとわかりやすいと思います。それまで自分のお財布の中に入っていて、思いのままに使える、自分の側にあるものだったけれど、それを神様の側に移す。「どうぞ、御心のままにお使いください」と捧げる。それと同じです。そして、自分を神様の側に置くということは、神様の意志を第一として、神様の傍らに自分を置いて生きることです。それがなすべき礼拝だとあります。ところで、この「なすべき」は、一般の人にとってはそんなことはないけれど、キリスト者になったからにはなすべきだという意味ではありません。元の言葉は筋道を表す言葉で、それが人として当たり前のことだというニュアンスを伝えています。ですから、礼拝は、そして礼拝としての生活は本来人として理にかなった自然の生き方だということを伝えています。魚が水の中にいるのが自然で、魚が話せたら、ここに居るから安心だ、平安だというでしょう。なぜ人がこんなにも不安の中に生きなければならないのか。魚が水の外で生きようとするように、神様から離れて生活しようとするから平安がないのです。さて、まとめてみましょう。私たちは神様の恵みによって、キリストの贖いの御業を通して、そしてその出来事を信仰によって受け止めて神様と和解し、義とされた。「こういうわけで兄弟たちよ」。義とされたのだから、自分を、自分の人生を私の側から神様の側に移してお任せする。そのようにして日々生きていこうではないか。それが人として当然の、自然な生き方なのだから。さて、ここでちょっと引っかかるのではないでしょうか。ご説ごもっともだけれど、果たしてそんな風に生きることが自分に可能だろうか。この先を読むと敵が飢えていたら食べさせなさいとか、兄弟を裁いてはならないとか、自分ではなく隣人を喜ばせることに心を使いなさいとか、およそ出来そうもないことばかりが並んでいる。とても自分には無理だ。そう感じるのではないでしょうか。この世に倣ってはいけないとある。でも、この世に倣わなくて、調子を合わせなくて大丈夫だろうかと不安になります。自分は大丈夫だろうか。神様に全て委ねて生きるのが自然な生き方だと言われても、自分にはとても無理だと感じるのではないでしょうか。いや、むしろ、そう感じないとしたらあなたの救いは本物かどうかを疑わなければならないのです。ヨハネの手紙一1章8節に「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」とある通りです。パウロは、いや、神様は、頑張って、修行を積んでそのような生き方をしなさいと言っているのでもなければ、それが出来ないようだったらあなたはキリスト者ではないと言っているのでもありません。今日、何と読んだでしょうか。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなた方に勧めます。」神の憐みによってです。神様が見守っていてくださる。そして、その神様はすべてご存知である。私たちの弱さ、不完全さ、罪深さを知って下さっている。そして、それを憐れんでくださっている。神様の側に自分を置く前に、実は神様の方でご自分を私たちの方に置いてくださったではないか。イエス・キリストは来て下さったではないか。ヘブライ人への手紙4章15節に、「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあるではないか。この御言葉に力を頂きましょう。私たちの、不完全な、失敗を繰り返し、でも神様の側に自分を置き続ける生活を神様は喜んでくださるのです。神様の憐みにあって、自分を神様の側に置く、捧げる日々を送ってまいりましょう。

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