そのとおりかどうか 使徒 17:1-34

パウロは伝道の旅をしていました。その一コマです。テサロニケ、ベレヤ、そしてアテネへとイエスの福音を伝えて歩いたのです。それぞれの町の特徴を見ると言いますか、17章を読んでみるとそれぞれの町々で人々の反応が少しずつ異なります。パウロが伝えた事は同じなのですが、少しずつ違うのです。その事を見ながら、今月は神学校週間ですので、私達が毎週礼拝の後に持つ教会学校がどのような場なのかということを考えてみたいと思います。まず、テサロニケの人々の特徴は直情的という事が出来るように思います。感情、感覚で物事を決めていくというタイプでしょうか。それは、とても素敵な持ち味です。そのような人は結論が早い。リーダーとして、統率していくのに欠かせない資質を持っているという事が出来るでしょう。でも一方で、判断を誤ってしまった時は後悔する事になりますし、彼の判断に従った人も判断ミスの結果を被る事になります。パウロは安息日、これは今日の土曜日にあたりますが、三回の安息日連続でメッセージを語ったようです。どんなメッセージかといいますと、「メシヤは必ず苦しみを受け、死者の中から復活する事になっている」こと。そして、「このメシヤは、私が伝えているイエスである」ことです。つまり、イエスの贖いの十字架と、死と、復活をのべ伝えました。福音そのものを伝えました。そして、人々は結論を下しました。ある者は信じて従ったとあります。この人たちはユダヤ人です。神をあがめる多くのギリシャ人、つまりギリシャ人のユダヤ教徒も信じました。また、かなりの数の婦人たちも信じたとあります。しかし一方で、大多数のユダヤ人たちはならず者を使ってまで暴動を起こし、町を混乱させ、大声でパウロを糾弾したとあります。まさに激情に駆られたみたいになったのでしょう。感情は素晴らしい賜物ですが、時として人はそれに支配され、振り回されます。今、おりしもお隣の韓国と日本の関係は険悪です。激情に駆られて判断するようなことは厳に慎みたいものです。次に、ベテルを飛ばしてアテネについてみてみましょう。アテネの人は理論派の人たちです。資料、情報を集め、分析し、良く考えて結論を出すタイプの人たちといえるでしょう。ですからパウロは、神様が天地の創造主である事、人に仕えてもらう必要はない、つまり自立の神であること、人を造り、統治しておられるお方である事、そして人に神を求めさせるために季節の変化など自然を通して語りかけている方である事を伝えます。アテネの詩人も歌っているように、私たちは神の中に生き、動き、存在するものなのだと訴えます。人々は、これらの事を聞いて思い巡らしました。あるいは、確かに偶像の神や“知られざる神”などと違う真の神がおられるのかもしれないと思った人もいたでしょう。しかし、死者の復活という事につまずきました。ある者は露骨に嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらう事にしよう」とパウロを傷つけないように配慮しながらも馬鹿らしいたわごとと思ったようです。つまり、人間の理性、思考力の及ばないものはないはずだ、それらが及ばないならば、つまり理解できないならば、それは嘘なのだ、ないものなのだとする人間絶対主義の人たちだったのです。それでも何人かの人は信じたとありますが。さて、最後にベレヤです。この町の人たちは、テサロニケ・タイプとアテネ・タイプの良いところを兼ね備えていたように思えます。彼らは素直だったと11節にあります。素直と言うのは、何でも疑うことをせずにやみくもに受け入れてしまう事ではありません。「非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日聖書を調べていた」とあります。その通りだとかそれは違うとか、今までの経験や常識を物差しにして即座に判断してしまうことなく、ひとまず相手の事、聖書の言葉を聞く態度が見られます。そして、本当に語られた通りなのか、本当に聖書の伝える事は真理なのかを調べたとあります。まず、フリーハンドでパウロのいう事に耳を傾け、それが真理だろうかと知性を用いたのです。十字架の話を聞いたでしょう。イエスの甦りを聞いたでしょう。信仰による救いを聞いたでしょう。そして、裁きについても聞きました。テサロニケの人たちのように自分が今まで信じて来た事、受け入れて来た事と違うからと、感情の部分で受け入れられないからと即座に拒否する事はありませんでした。また、アテネの人のように熱心に聴くけれども理解の及ばない事、人間の知性では捕らえられない事は受け入れない、自分が物差しだとする態度とも違いました。パウロとの会話があったでしょう。自分は今までこのように神様の事を聞いてきたのだけれど、信じて来たのだけれどという事を話したでしょうし、パウロはそれに答えた事でしょう。本当にパウロが伝えるイエスがメシアなのか旧約聖書を調べもしました。君はどう思う、と意見を交換しました。そして、その結果多くの人が信仰に入ったと12節にあります。信仰に入ったというのは、ただ信じた事とは違うように思えます。これから、この信仰を基軸にして生きていこうという意思、決心にまで導かれたという事です。もちろん全員ではありませんでした。「多くの人が信じ・・信仰に入ったのです」。しかし、信じなかった人たちもテサロニケの人たちのように自分の考え、信仰と違うからと攻撃を始めた事はなかったようです。また、パウロの伝える福音をあざ笑う事もなかったようです。もしかしたら、その時は信仰告白をしなかったけれど、後になって信仰に入った人もいたのではないでしょうか。さて、このようにテサロニケの人たち、ベレヤの人たち、アテネの人たちを見て、どのように思われますか。いずれもとても豊かな人たちだと思います。テサロニケの人たちは感情豊かな人たちでした。感情によって判断する人たちでした。感情は神様の賜物であり、事実、直感的にイエス様が神の子であり救い主であることを捕らえる人もいます。正しく用いられるならば信仰生活をはじめ、生活全般を豊かにします。理知的なアテネの人たち。ものを知的にとらえ、考えて判断する事も、これは人だけに与えられた神様の特別な賜物でしょう。以前、科学の先生で、ご専門の科学の世界を見続け、それこそ知的に見続けて神様はおられるという結論に至った方を知っています。しかし、自分の理解できる事だけに閉じこもる事が人生を狭めることもあることを知ります。18世紀、19世紀と私たちは知性の時代を通りましたが、今は知的に理解することがすべてではない事は常識になっています。ポストモダンの時代ですね。そして、ベレヤの人たち。まず聞いて、鵜呑みにせず、聞いた時の感じとか感情とかに振り回されることなく、知性を用いて聖書を調べ、そして、それが本当だ、イエスは救い主だと分かりました。わたしたちは毎週日曜日礼拝を守ります。そして、その後教会学校でさらに学びます。ここは、ベレヤの場なのではないでしょうか。みんなで意見を言い合って、体験を語り合って、信仰者にとっては聖書の言葉が本当であることを確認し合う場所。まだ、イエス様を救い主と受け入れていない方には本当にイエスは救い主なのだという信仰に導かれる場。それが教会学校ではないかと思います。ベレヤの人たちのように、でも、眉間にしわを寄せて調べるのではなく楽しく語り合いながら、疑問があればそれをみんなで考える、そんな場であり続けましょう。そこで結論が出なくてもいいのです。でも、思っている事、分からないことをそのままにしておくのでなく、何でも語れる場所であり続けましょう。

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