とこしえの幸い 申命記 5:29

申命記の英語の題名は、“二回目に語られた言葉”という意味です。神様の力によって奴隷とされていたエジプト脱出したイスラエルの民が約束されていたカナンの地に入る直前に、彼らが四十年の間荒野にいた間に神様が語った言葉をもう一度聞いて確認するという意味があります。神様からみれば、いわば念を押すと言いますか、それだけに大切な事柄が語られたわけです。その中に今日の御言葉があります。「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸を得るように」。神様の、旧約の時代も新約の時代も、時代を超えて神の民に対して持っておられる気持ちは何か、今日、共に神様の前に集ってその言葉を聴いているわたしたちに対して持っておられる気持ちは何か。それは、とこしえに幸を得て欲しい、いつも幸いであってほしいという事です。みなさんは、もう今、思い出しているかもしれません。礼拝の最後に、それぞれの持ち場に遣わされて行くにあたり、毎週民数記の6章24節から26節の言葉を聴きます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように」。この言葉に送り出されて私たちは一週間の歩みを始めます。そして、この言葉は、主の祝福の内に歩む希望と、そうでなければ私たちは歩むことは出来ないという告白であり、また祝福し、恵みを与え、平安を与えようという神様の決意の言葉を聴くときでもあります。神様は、実に神を慕う者、信じる者がとこしえに、どんなときにも、いつの時も幸いであってほしいと願っておられるのです。それでは、“とこしえの幸い”とは、どのような幸いを言っているのでしょうか。まず、わたしたちはどんな時に幸いだ、恵まれていると感じるのかというと、普通に考えると何も心配する必要のない時、健康であり、仕事は順調であり、家族もそれぞれ問題なく暮らしており、十分なお金があり・・・、というような状態を考えます。これは、イエス様がおられた時代もそうだったようで、人々は健康で富んでいるという事が神様に愛されているしるしの一つと考えていたようです。そうすると、神様が、わたしたちのとこしえの幸いを願って下さっているという事は、いつも健康で富があり、何の心配もない事を願っておられるのだろうか。もしもそうだとすれば、病気を患っていたり経済的な苦労があるという事は神様との間に何か問題があるという事になってしまいます。それでは、神様のおっしゃる幸とはどういうものなのか。“とこしえの”という言葉が明らかにしてくれます。とこしえ、という事は、腐る事がない、無くなったりしない、状況に左右される事がないという事です。イエス様がマタイによる福音書6章19節でおっしゃったように、地上の富は虫が食ったりさびがついたり、また、盗人が盗み出したりするものです。虫が食うというのは、いつの間にか価値が減ること、さびがつくとは役に立たなくなってしまう事、盗まれるとは、その言葉通り誰かに取られたりとったりという、そういうものという事でしょう。健康や富は、それ自体悪いものではありませんが確かに健康もだんだんと失われて行き、富も価値が減ったり失われたりすることのあるものです。主は、はっきりと、これらは、その時の、一時的な幸いはもたらすかもしれないけれど、“とこしえの幸い”をもたらすものではないとおっしゃったのです。それでは、とこしえの幸いとはなんだろうか。ヨハネの福音書17章3節を見ますと、イエス様は、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る事です」とおっしゃっています。「永遠の命」を「とこしえの幸い」と読み替えて問題はありません。とこしえの幸いとは真の神とキリストを知る事です。知る、という言葉にはいくつかの意味というか、種類があります。たとえば、どこでもいいのですが、銀行の事を考えてみましょう。預金量はどのくらいで、主要な投資先にはどんなところがある、大株主は誰で、頭取は・・。これも一つの知り方です。お金を借りる必要があって、相談に行ったところ、本当に親身になって話を聞いてくれて何とか融資をしようと頑張ってくれた。これもその銀行を知る事ですけれども預金量が・・という知り方とは全く異なる知り方です。さらに、働くのであったら行員をどんなに大切にしてくれるかとか、また違った知り方を知ります。イエス様が神を知る、キリストを知ると言った時、それは、預金量を知るように知識として知ることではありません。イエスは救い主。素晴らしい信仰告白です。でも、とこしえの幸いを味わうには、そこで止まってはならないのです。わたしたちの教会のビジョンに、御言葉が実生活の中で現実化することを信じるという言葉があります。御言葉を知るだけでなく、それを生きよう。信じて、生活の中で実践する時に神様の言葉が真実であることを知ります。経験します。その時に、わたしたちは、とこしえの幸いが何かを知ります。神の真実を知ります。神の真実の中に生きている事を知ります。また、詩編27編4節には、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを」とあります。“とこしえの幸い”とは、いつも主の家に宿り、そこで主を仰ぎ望む事です。詩編作者にとって主の家はエルサレムの神殿でした。わたしたちにとってはどこか、教会です。これも、わたしたちの教会のビジョンですが、「安心して弱音のはける教会」とあります。キリスト者になったからといって、この世の中での“とこしえでない、一時的な幸い”が、つまり健康や富、人間関係に何の波風も立たないことが約束されるのではありません。そのようなわたしたちが教会に集い、自分の課題を教会の課題として打ち明け、分かち合い、共に苦しみ、祈ってもらい…。それが、主の家に宿る者の姿です。ふつう私たちが考えるのとは異なり、“とこしえの幸い”は、そのような試練や課題がないことではなく、その中で苦しみを共にしてくれる友がいること、いや、神様ご自身が共にその課題を担い、わたしを支え、導いて下さることを信じて歩むところに見いだされるのです。その現場でこそ神様を味わう事が出来るからです。それからもう一つ、“とこしえの幸い”を知るために、「わたしの戒めをことごとく守るこの心」とありました。「わたしの戒めをことごとく守ること」でないことに注意したいと思います。ローマの信徒への手紙3章10節でパウロがイザヤ書を引用して言っているように、「正しい者はいない。一人もいない・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」のです。罪のない生活をすることは、わたしたちには出来ないのです。だから、神様の戒めをことごとく守って生きることは出来ないのです。そして、神様は、そのことをご存じであり、罪無く完全に生きることを求めてはおられないのです。ただ、「わたしの戒めをことごとく守るこの心」。そのことにあこがれる思いと申しましょうか、主とまみえる時に罪の存在からも清められる、その時を思う希望と言いましょうか、そのことをいつも心に抱いてほしいと神様はおっしゃるのです。罪は犯すであろう。でも、絶望するな。ただ、悔い改めて立ち上がれ。いつも十字架を見つめ続けよ。そして、希望に生きなさい。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はあなたの内にないのだ。罪を公に言い表すなら、神は真実であ正しい方だから罪を赦し、あらゆる不義からあなたを清めて下さるのだ。(ヨハネの手紙一 1:9)神様は、あなたにとこしえの幸いを望んでおられます。神様のことを知ることを心から望んでおられます。あなたの生活を教会に根付かせなさい。生活の現場の大変さから逃避するのではなく、大変だからこそ教会に根付き、傍観者としてそこにいるのではなく、その大変さを分かち合い、にない合い、祈り合いなさい。ガラテヤの信徒への手紙6章2節にあるように「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。そして、主の戒めを追い求めなさい。主の戒めは、互いに愛し合う事です。互いに愛し合いなさい。赦し合い、受け入れ合いなさい。その時に神様にあるとこしえの幸いを知ることが出来るのです。

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