なすべき礼拝 ローマ 12:1-2

読み続けておりますローマの信徒への手紙、12章1節に「これこそ、あなた方のなすべき礼拝です」とあります。ずいぶん、念の入った書き方だと思います。「これがなすべき礼拝です」と読むのとずいぶん感じが違うと思います。他でもないこれこそが、他の誰でもないローマの方々よ、あなた方のなすべき、そしてすべてのキリスト者のなすべき礼拝だといいます。それはどんな礼拝かといいますと、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることだとあります。私たちには、ちょっとギョッとしてしまう感じですが、当時の人々にはそれほどでもなかったのでしょう。ユダヤ人であれば、エルサレムの神殿で動物が罪の犠牲としてささげられていることはよく知っていましたし、異教の世界でもある事でした。でも私たちは、献げるとは自分の側にあるものをその人の側に移すことだと先週聞いたことを思い出すとほっとします。自分の体、時間、生活そのものを自分のものという側から神様のものという側に移すことだと読むことができます。そして、2節から、それは具体的にどういうことなのかが説かれます。まず、否定的に「世に倣ってはなりません」とあります。世の中に合わせてはいけないということです。ここで私たちは思います。簡単にそう言われているけれども、私たちはいつも世に合わせる誘惑にさらされている。なぜ合わせたくなるのか。合わせなくて大丈夫だろうかと不安になるからです。明日から皆さんが生活するところ、学校であれ、会社であれ、主婦同士のお付き合いの場であれ、そこを支配しているのは勉強ができる人、スポーツが得意な人、夫が、妻が高収入を得ている人、高級車に乗っている人が一目置かれる世界です。そんな中で、神様を第一にするなどと言っていて大丈夫だろうかと不安になるのです。それまでは水の上を歩くという奇跡を体験していたペテロがイエス様から目を離したら湖に沈みそうになったように、私たちはイエス様から目を離すとすぐに世に倣う方向に沈んでしまいます。教会もそうです。不安になる。そして、実際に世に倣ってしまった歴史があるのは事実なのです。ある本で、こんなことを読みました。木下順二という人をご存知の方も多いと思います。私は、名前しか知らないほうなのですが、劇作家であるとともに日本の民話を集め、童話を作りと、幅広く活躍した方です。彼は、熱心なクリスチャンでしたが、やがて信仰を捨てます。いや、教会を捨てたと言った方が正しいでしょう。なぜ捨てたのか。教会が世に倣ったからでした。彼は、第二次世界大戦中に九州の教会で信仰生活をしていたそうです。その時、牧師が説教でコリントの信徒への手紙一13章を読み替えたそうです。どのようにか。例えば、愛は決して滅びない、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も多いなるものは、愛である、というところを「国は決して滅びない、信仰と、希望と、国、この三つはいつまでも残る。その中で最も多いなるものは国である」という風に読み替え、そのように読まなければならないと説教したそうです。そのほかにも、自分が聖書を用いていかに兵隊たちを励ましてきたかを自慢する牧師がいたそうです。その教会は、牧師は世に倣ったのです。木下順二は、それに深く絶望し、教会に絶望して去ってしまったのです。そういう事が起こりうるのです。教会もイエス様から目を離したら、福音が語られなくなったら世に沈むのです。世に倣ってはならない。それに続けて聖書は「むしろ」と言います。心を新たにして自分を変えて頂きなさい。口語訳聖書もそうですが、新共同訳聖書では変えていただきなさいと訳しています。変えるのは神様です。しかし、新改訳では心を変えなさいとあります。変えるのは私たちです。どちらの訳も可能なのです。そして、新改訳を使うある先生のメッセージで、自分で変えろと言われて多くの人が苦しんだ、これは、変えていただくのだと語っていました。しかし、私はここはやはり新改訳の「変えなさい」の方がいい訳だと思うのです。まず、この“変える”は表面的に変えることではなく、根本のところで、根っこのところで変えることです。すると私たちは、思う。それは大変なことだし、罪びとである私たちに神様に沿うような心に変えるなどできるのだろうか。やはり、変えて頂くしかないのではないのではないか。しかし、先週1節にある「神の憐れみ」について学んだことを思い出していただきたいのです。私たちが神様の側に自分を置く前に神様が私たちの側に身を置いて下さり、人となって下さり罪を負って十字架で死んでくださった。毎日毎日を、この神様の憐れみに自分を重ねていくことが自分を変えることの意味ではないでしょうか。その時に、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようになる。世の風を読むのではなく、神様の風を読むようになるのです。日々の出来事の中で、それは嬉しい出来事もあればつらい出来事もあるでしょう、その出来事の中でどのように振舞うのか。世に倣って嬉しいことは喜ぶけれどつらい事にあうならば不運を嘆き、あの人のせいでと人を責め、憂さ晴らしをするのでしょうか。それとも神様に訴え、思いをぶつけ、でも主の御手の守りを信じる決心をするでしょうか。また、出会いの中に神様の風を読むでしょうか。中学生のときにはじめて教会に行って、作り話だと思っていた聖書の話が事実であり、イエス様は本当に奇跡をなさったのだと教えてくれたのは、仏教系の学校で唯一クリスチャンだった担任の先生でした。仏教の方が身近だった私に最初に福音を伝えてくれたのは、たまたま旅行先で知り合ったカップルでした。中学の時に行った教会には、すぐに行かなくなってしまいましたが、何年かたって神様の召しを感じた時、相談に乗ってもらい、祈ってもらった人の一人はその教会の牧師先生でした。人との出会いには何か神様の意図があるようです。その時には分からなくても神様の風があるのだということを知る時、御心をわきまえる準備ができます。それでは、どのようにして風を読む力を養ったらいいのか。祈りと御言葉です。絶えず祈りなさいとパウロが勧めているとおりです。どのように祈ればいいのか分からなかったら「主の祈り」を心をこめて、その言葉を自分の言葉とするように気を配りながら祈って下さい。そして、御言葉に聞き続けることです。少しずつ、流し読みしないで、神様は、その言葉によって何を私に語ろうとしているのだろうと意識してください。そのようにして、自分の思いを神様の側に置くことを心がけることです。そして、教会に連なることは大切なことだと思います。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(エフェソ 1:23)だからです。教会はともに建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるところだからです。(エフェソ 2:22)そして、エフェソ 3:21でパウロは、「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」と祈りました。私たちのなすべき礼拝は、実に日常生活の中にある事にお気づきだと思います。だから、私たちは週の最初の日に共に集まって、ともに礼拝をささげ、ここからそれぞれの場所に神様によって派遣されて、その場所で、日常生活の中で礼拝を守るのです。

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