わたしたちに起こったこと ローマ 15:16

今日の聖句、「異邦人が聖霊によって聖なるものとされた。神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」と読みました。この御言葉によって、私たちが神様の前にどのような者だったのか、また、どのような者とされたのか。そして、だからどのように生きていくことが出来るのかを知ることが出来ます。また同時に、聖書に示された真理を伝えるとは、どのような事なのか。何を伝えるのかを知ることもできます。今日、この両方について聞く時間はありません。第一のわたしたちについて意味するところを読み解き、神様に聴きたいと思います。私たちは、キリスト者となって時間が経つと、神様を信じ、イエス・キリストによって救われた時の感動が薄れてしまうという事があると思います。もしも、そのような方がおられたら、この御言葉によって、自分の身に起こったことがいかに素晴らしい事なのか、そして、今の自分がどんなに素晴らしい者なのかをもう一度噛みしめて頂きたいと思うのです。16節のみ言葉、ある者がある者とされたとあります。何か大きな変化があったのです。ある者が今までと全く違う者とされたのです。そのある者、もともとの方ですが、それは異邦人だとあります。異邦人が何かに変えられた。さて、異邦人とは、外国人の事ですが、ここではユダヤの世界で独特な意味づけをされた言葉として用いられています。つまり、神を知らない人、神を敬わない人、敬っていたとしても、本来神様ではない者を神だと思って敬っている人、という意味です。考えてみると、私たち日本人の多くは、受験の時や子どもが生まれた時などは神社で拝んだりしますが、日常生活の中でお寺や神社が意味を持つことは、まずないのではないでしょうか。つまり、私たちは、本当の意味で神を知らない者、特に敬ってはいない者、無関係な者と言えると思います。そういう意味で異邦人です。また、聖書は、天地を創造した、人格を持った神がおられ、その方が唯一の神であると証言しているわけですが、その神を知らず、死んだ人や、木や石で作ったものを拝んだりしている、そういう意味でも異邦人です。聖書を読みますと、ユダヤ人の人たちは、自分たちは異邦人ではないと自負し、まことの神を知っている自分たちだけが神の愛を一身に受けるのだと思っていたわけです。ところが、使徒言行録11章18節を読むと人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下ったのだ」と言って神を賛美したとありますが、彼らは自分たちが信じた事と違い、神様の愛は異邦人にも及ぶという事を知ってとても驚いたと伝えています。この異邦人、ユダヤ人は神の愛の対象外と思っていた、私たちもその一員である異邦人が主人公であり、彼に起こったこと、私たちに起こった事が今日の聖句で伝えられているのです。それは、聖なるものとされた、異邦人だった者が聖なるものとされたという事です。ここで聖なるものとは、道徳的に清く、正しく、美しい人と言う意味ではありません。「聖なる」のもともとの意味は、区別された、という意味ですが、平たく言えば神様のものとされたという事です。異邦人、神を知らない、無視していた、都合のいい時だけ拝んで利用するのが神様と思っていた、そういう人が神様の者とされたという意味です。その間に、異邦人が聖なるものとされたという事の間に「聖霊によって」とあります。確かにわたしは、中学生の時に教会に行った。自分で行こうと思っていった。その時は長く続かなかった。しかし、10年くらいたってキリスト者のカップルに出会い、彼らの誘いを受けて、一度だけお付き合いでという気持ちではあったけれども、とにかく一度だけでも行こうと決めた。そして教会に行った。そのように、私の意志がそこにはあります。でも、その私の意志をも包んで、それは聖霊によるのだ。聖霊が選んで下さり、導いて下さったのだ。そして、そこからさらに聖霊が罪を示して下さり、あの使徒言行録2章37節に伝えられている、ペンテコステの日にペテロのメッセージを聞いた人たちと同じように、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という思いに導かれたのだ。その問いかけに聖霊は、イエスが答えであること、イエスがわたしの罪を贖って下さり、死んで、葬られて、罪の赦しのしるしとして三日目に甦らされたのだという事を示して下さったのだ。そして、多分普通ならばかばかしいと思われるその真理を信じさせて下さったのだ。それが、聖霊によりという言葉の示すところです。異邦人であったわたしが、あなたが、聖霊により導かれて聖なるものと、神のものとされた。そして、そこには目的がありました。何事にも目的があります。無意識のしぐさや生理現象にも、すべて目的があるそうです。恐怖を感じる時に手に汗が出てくるのは戦う準備だそうです。緊張している時に、ある人は空を見上げたり、胸を叩いたり、あるいは、貧乏ゆすりをしたり、それぞれ緊張を和らげるためでしょう。さらに無意識の事でないならなおさら目的をもってこの事をし、あの事をします。神様は、なぜ異邦人のわたしたちを聖霊によって聖なるものとして下さったのでしょうか。「神に喜ばれる供え物となるため」とあります。うっかりすると、この言葉を何か窮屈な事のように読んでしまいます。供え物などと言うと、もう自分の意思は全く顧みられず、まな板の上のコイのように身動きできない、不自由な自分にされてしまうのではないかと思ったりしてしまいます。しかし、神様の事を知れば、そのような事を神が喜ばれるはずがない事に気付きます。それでは、どういう事なのか。私たちと友達になり、愛をそそぎ、交流をする者とされた。私たちの側からも神様に聴き、語り、導きを求め、歩みをともにして頂く者とされた事です。でも、そのために供え物になる事が大切であるわけです。供え物にならないと、100%この祝福に満ちた神様との関係を味わう事が出来ないという事です。そして、供え物とは、ささげられたものです。既に読んだ12章1節、2節に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして奉げなさい。これこそあなた方のなすべき礼拝です」と説いて、「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良い事で、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようになりなさい」とあります。いけにえとは供え物の事です。神に喜ばれる供え物とは、心を新たにして自分を変えていただき、神の御心をわきまえて、それを喜び、従う事、これが聖なるものとされた人の生き方だと読む事が出来ます。神が一番喜ばれた供え物はイエス・キリストです。そして、イエスは死んだけれども復活させられ、父なる神の右に坐しておられると聖書は伝えています。ここに、私たちをささげる時に何が起きるかが示唆されています。神は、私たちの人生を復活させ、つまり本当の意味で生きたものとして下さり、最高の人生を歩ませて下さるという事です。神にささげる供え物とする。神様を第一とする。なんだか、自分がなくなるみたい?逆です。そのようにする時に命の主である神様が私たちを最高に生かして下さるのです。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0