わたしの助けはどこから来るか  詩編121

今日は、詩編121編を読みました。この個所から神様に聴きたいと思います。
都上りの歌、とあります。遠くから、近くから、巡礼者が神殿で礼拝するためにエルサレムに向かっていきます。北から、南から、東から、西からやってきます。そして、三方から見るとエルサレムは小高く山になっている、その上に神殿があるのです。この詩編を読んだ人が何部族で、どちらから来たのかは分かりませんが、恐らく遠い所からやって来たのではないでしょうか。荒野を旅して、長い道のりをやってきます。いよいよエルサレムに近づいて来る。そして見上げると山が見える。巡礼者は、そこに神様の臨在を感じて言ったのではないでしょうか。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか、わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」と。この人は、何歳くらいだったのでしょうか。12歳になると、“律法の子”と呼ばれ、宗教的には成人とみなされエルサレムに巡礼するようになります。でも、詩編の内容から、この世に生れてからそれなりに年齢を重ねた人ではないか、いろいろな経験を積んだ人ではないかと思うのです。そして、自分は神以外の者に助けを求めた事もあったが、やはりわたしの助けは主のもとから来るのだ、と喝破したのではないかと思うのです。わたしたちの人生には、問題が付き物です。お一人お一人、振り返ってみればあの時は大変だったという経験がおありでしょうし、今現在助けが欲しいという方もおられるでしょうし、今は順調でもそれがずっと続くという事は保証の限りではありません。大なり小なり、また助けが欲しいような事が起こるでしょう。そんなことが起こった時、人はどのように対処と言いますか、どのように振舞うのでしょうか。どこに助けを求めるのでしょうか。三つのことが頭に浮かびます。まず第一は、ない事にしておくというものです。川端康成は鳥を飼っていたそうです。ある時、出版社の人が訪ねると、その鳥が死んでいた。しかし、あんなに愛していた鳥の死でありながら、川端は何事もなかったように振る舞っていた。そんなことを読んだ事があります。明らかに川端の心の中には悲しみがあったに違いないのです。しかし、その悲しみも、悲しみのもとになった事も心の視界の外において、何もなかったかのように振舞う。それが、対処法だったのでしょう。また、後回しにするという方法もあります。昔、サラリーマンをしていた時のことを思い出します。保険会社に勤めていたのですが、保険に入る時、健康状態を正しく伝えなければなりません。しかし、この程度はいいだろうと保険会社に伝えないで加入して亡くなってしまったりすると、保険金をお支払いすることが出来なくなったりするのです。せっかくお入りいただいていましたが、最初の告知が正確でなかったので保険金を払えませんと伝えるのはつらい仕事です。出来ればそんな事はなかった事にしておきたい、何もしないで済めばいいなどとあり得ない事を思ったりします。連絡しなければいけないのですが、後回しにしたい思いに駆られます。ない事にしておくという対応には、何かをするという事も含まれます。ショッピングは楽しいものですが、何か対処しなければならない事を一時忘れるためにショッピングしたり、あるいは美味しいものを食べまくったりするのもない事にしておく方法です。さらに、ひたすら自力で何とかしようとする対処法もあります。自分の事は自分で。それは正しい事です。しかし、自分ではどうする事も出来ない事、人の助けを借りても何ともできない事があるものです。詩編を読んだ詩人は、これらの方法で事にあたった事があるかもしれません。しかし、その経験を踏まえたうえで、やはりわたしの助けは主から来るのだと感慨を込めて歌ったのです。なぜ、わたしの助けは主から来ると、信頼を込めて言う事が出来たのか。まず、彼が天地を造られた主のもとから、と言っている事に注目しましょう。天地を造られた主。つまり、神様はすべてを造られ、それらを秩序づけ、支配しておられる、そのような全能のお方。知恵を超えた知恵、全知の知恵のある方。その方から私の助けは来るのだと言っているのです。天を見上げる時、また、周りの自然を見る時に何を思うでしょうか。偶然に出来たと信じる事が出来るでしょうか。先日、山形県米沢市にある教会に行きました。金曜日の夜にも礼拝があり、その中で先生はこんな話をしておられました。万有引力の法則を発見したニュートンのもとにある人が来たそうです。その人は、ニュートンの机の上に太陽系の模型を見つけました。とても精巧に出来ています。すっかり感心した友人は、これは誰が作ったのですか、と聞きました。するとニュートンは、誰が作ったのでもない、自然と出来たのだと言いました。友人は、冗談を言っているのだと思い、笑いながら「いやいや、本当は誰が作ったんだい」と聞きます。ニュートンは、偶然できたのだと繰り返します。そんな事が何度か続いた後、ニュートンは言いました。「こんな小さな模型ですら、あなたは偶然に出来たとは信じない。そのあなたが、模型ではなく本物の太陽系について『誰が作ったのでもない。偶然に出来たのだ』と主張するのはどうしてなのでしょうか」と尋ねた。そんな話を聞きました。確かに神様は天地を創造され、それを保たれておられる全知全能のお方だと知らされます。その方から、わたしの助けが来るとしたら、何と素晴らしい事でしょう。そして、神様は全知全能の方だけど遠くにいて、という方ではない事を詩編作者は知っています。経験しています。3節以降に「見守る方」、「見守って下さる」という言葉が6回繰り返されています。この力ある神様は、わたしを見守って下さっているのだ。つまり、関係をもって下さっているのだという事です。わたしたちの方から頼んだわけではなくても、わたしたちが神様が関係を持ちたいと思われるような素晴らしい人、徳を積んだ人でなくても神様は関係を持たれます。なぜ、そんな事が分かるかと尋ねますか。イエス・キリストの十字架を見れば分かります。イエス様は、「わたしは義人のために来たのではなく、罪びとを救うために来たのだ」とおっしゃいました。そして、その事の最高の表現が十字架で、罪びとのために、わたしたちのために、罪の赦しのために命をささげて下さったという事です。罪を贖って下さるほどに関係して下さった神様が、それより小さな事で関係を拒むことなど有り得ましょうか。その神様、主はあなたの足がよろめかないように見守って下さっています。支えて下さるのです。5節には「あなたを覆う陰」とあります。詩編作者は、荒野の中を旅してきたのでしょう。わたしもユダの荒野で一泊しました。昼はとても暑い、そして夜はとても寒いのです。昼は、半袖のシャツ一枚で過ごせますが、夜はテントの中で暖房を使うのです。その、昼の強い日差しの中で影となって下さる。昼の暑さがあなたを撃つ事はなく、夜の寒さもあなたを撃つ事がない。さらに、7節には「魂を見守って下さる」とあります。魂とは、人格のいちばん深い所なのだそうです。あなたをあなたたらしめている所。なんだか抽象的で、正直言ってわたしにははっきり分かりません。でも、とても大切なところである事は分かります。ここが壊れたり傷ついたりしたら本当に大きなダメージを受けるようなところである事は分かります。それを守って下さる。そのお方から私たちの助けは来ると詩人は伝えます。さて、みなさんにチャレンジしたいと思います。今までにない事にした事はあるでしょうか。食べることや買う事、ひたすら仕事に没頭する事でも何でもいいのですが、関心を他に向ける事によってしのいだ事があるでしょうか。ひたすら自分の努力、人の力で乗り切ろう。その方法ですべてうまくいったでしょうか。これからも絶対にうまくいくでしょうか。信仰は体験です。説明ではありません。いや、説明と言いますか、メッセージを聴いて、応答して、体験して初めて知るものです。みなさんは、神様に招かれて礼拝に来られ、あるいはインターネットでメッセージを聴いておられます。招かれているのです、神様に。この詩編を読んだ詩人の言葉は神様が語らしめた言葉です。詩人を通して神様があなたに呼び掛けておられるのです。わたしがあなたの助け主だ。わたしを助け主とせよ、と。どうぞ、今日、その呼びかけにこたえて主に従う決断をしていただきたいと思います。

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