イエス・キリストの系図 マタイ 1:1-17

今日からアドベントです。イエス様のお誕生がどのような出来事だったのかを思いめぐらすときです。これから23日のクリスマス礼拝まで、毎週イエス様のお誕生をテーマに聖書を読みたいと思います。第一回目はマタイの福音書の冒頭に伝えられているイエス様の系図を読みます。無味乾燥とも思える箇所です。初めて聖書を読む人は読み飛ばしてしまうかもしれません。あるいは、ここですっかり気持ちをくじかれて聖書を読むのをやめてしまうかもしれません。しかし、よく読んでみると、こんなところにも神様の豊かなメッセージが語られていることが見えてきます。この系図は、アブラハムから始まっています。もっと遡れるのです。しかし、アブラハムから始まっています。ユダヤ人であれば、このことから神様がアブラハムがすべての人の祝福の基となるという創世記12章の御言葉を思い浮かべるでしょう。つまり、この系図は神と人の約束、神様が救い主を与えるという約束を表す系図だということです。次にダビデが登場することで、ますますそのことがはっきり見えてきます。旧約聖書を読むと救い主はアブラハムの子孫から、彼の子孫の内のユダ族から、その中のダビデ家からとだんだんと限定されていくことがわかるからです。ところで、わたしたちは、自分の家の系図などということにあまり関心を示しません。朝のドラマ「まんぷく」で主人公のお母さんが「私は武士の娘です」ということをとても誇りにしていて、自分は源頼朝の子孫だと言っていました。系図があるかどうか知りませんが、もしも系図を作るとしたらちょっと省いたりしていわゆる立派な人ばかりですよ、という系図を作るのではないでしょうか。しかし、この系図、イエス様の家系図には、その点で不思議なことがあるのです。四人の女性が挙げられています。当時のユダヤ人の社会は男系社会であって、わざわざ女性を挙げるとしたらすごく有名な人とか、ぜひともそこに連ねて自慢したい人とか、そんな人に限られたと思います。しかし、ここで挙げられている人たちは、そのような理由ではありません。まず、3節に「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。実は、ユダのパートナーがタマルで、二人の間にペレツとゼラが生まれたのではないのです。タマルは、息子の嫁さんなのです。ユダは、旅先でタマルを売春婦だと思い、関係し、その結果生まれたのが双子の息子だったのです。タマルは売春婦ではなかったのですが、なぜそのようなふりをしたのかはお話しする時間がありません。とにかく、双子の誕生の裏には、ユダにとって人にはあまり知られたくない事情があったのです。5節にはラハブが登場します。この人はエリコの住民でした。ユダヤ人ではありません。ユダヤ人たちは、神様によってエジプトから解放され、導かれてカナンの地に来ました。ヨルダン川の向こう岸にわたって、最初に目の前にしたのがこの町でした。とても不道徳な町でした。ラハブ自身、売春をする人でした。しかし、やってくるユダヤ人の神様のことを聞いたのでしょう。この方こそが真の神と信じた人でした。その信仰のゆえに、町で彼女とその家族だけが滅亡をまぬかれたのでした。そればかりでなく、のちに彼女はサルモンと結婚し、彼女から4代目がダビデということになります。どんな状況からでも神様を信じる人を神様は決して退けることなく、ご自分のために用いてくださるのですね。ラハブの息子のお嫁さんがルツです。ルツはモアブ人です。この人もユダヤ人ではありません。そして、モアブ人はその不道徳と神様に敵対する態度のゆえに、民族としては神様に退けられたのでした。しかし、ルツは、そんな中で姑さんを通して真の神様を知り、夫と死別したにもかかわらず故郷を捨てて姑さんとイスラエルに来るほどの深い信仰を持つようになります。人は出身や家柄に一目置いたり、逆に差別したりすることがありますが、神様はそんなことにはお構いなしです。6節には、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ソロモンはダビデと彼のパートナーの間に生まれた子どもではないのです。ウリヤという人の妻との不倫によって生まれた子どもなのです。不倫といっても一方的な話で、王であるダビデはウリヤが出征していないところを見初めて彼女が人の妻であることを知りながら奪ってしまうのです。そして、妊娠させてしまいます。まずいことになったと思ったダビデは、ウリヤに特別休暇を与えて帰還させ、生まれる子はウリヤとその妻、バテシバという名前なのですが、(マタイの福音書は、彼女の名前は上げていません。神様は、彼女の名誉を守るために名をあげなかったのでしょう)バテシバとの間の子ということに取り繕うとしたのです。しかし、それがうまくいかないと、ついにダビデはウリヤを最前線に送り込んで孤立させ、戦死するように仕組みます。暗い、暗い話です。ダビデの恐ろしい一面です。しかし、ダビデだけが特別に暗い、恐ろしい一面を持っていたということではなく、ここに挙げられている人すべてが、そして私たちすべてが暗い面、恐ろしい一面、絶対に知られたくないことがあるということなのです。だから、これらの人はみんな死にました。人間だから当たり前と思うかもしれません。しかし、聖書を通して、神様は罪が支払う報酬は死です、とローマの信徒への手紙6章23節で明確に語られます。すると、どういうことになるのでしょうか。この系図の人々、いろいろな人がいた。いろいろなことがあった。なんともやりきれないような話があった。ほっとするような信仰を見出すこともできる。でも、とにかくみんな、すべての人は死の支配下にある。罪の結果を摘み取らなければならない。しかし、その系図を通して、そのような人々の流れの中で、メシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。このお方は、メシアであった。救い主であった。人を罪から、死の支配から解放するお方であった。神様はお諦めにならなかった。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモン、アハズ、ヨシヤ…。一人一人は皆不完全で、すぐに神様から離れ、保身に走り、欲望に支配され…。そんな彼ら、そして私たち。でも、神様は救いをあきらめなかった。救い主を送って下さった。あきらめない神様。そして、どんな私でも神様の救いの光は届いている。どんな私でも、神様の救いの恵みにあずかることができる。それが、この系図の伝えるメッセージです。救いだけではありません。人生どんな過去でも大丈夫。人生、いつからでも新しく始められる。神様はあなたをあきらめない。だからあなたもあきらめないで。それが、今日わたしたちが聴く神様のメッセージです。

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