エノクの生涯 創世記 5:21-24

長い間ローマの信徒への手紙を読んでまいりましたが、先週で一応の区切りをつけました。今日は、久しぶりに旧約聖書を開いてみたいと思います。創世記の5章21節から24節までの聖句です。ここには、エノクという人の人生が語られています。この章は、「これはアダムの系図の書である」と始まります。アダムは最初の人であり、すべての人の始祖ですから、私たちの始祖でもあります。わたしたちの系図の書でもあるわけです。わたしたちはどこから始まっているのかと申しますと、「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて人と名付けられた」とありますから、わたしたちは神によって、そしてどの人もみな祝福されて創造されたのだという事が分かります。この事も大いに語る価値のあることなのですが、今日はエノクという人に焦点を当てて神様に聴くことにいたしましょう。エノクは、アダムから六代目、神様が造られた最初の人アダムを含むと七代目の人になります。彼の父イエレドは彼をエノクと名付けました。わたしたちは子どもに名付ける時、いろいろと考えるものです。こんな人になってほしいとか、こんな人生を送ってほしいという願いを込めて名付けるものです。わたしの息子は信之と言います。信仰の信に、紀貫之の之という字です。信仰をもっていってほしい、生きてほしいという願いを込めて名付けました。実は、最初ペテロにあやかって、また長男であることから岩太郎という名を考えたのですが、みんなに反対されてあきらめました。もし、この名をつけていたら、なんて流行らない名前を付けたのかと息子に叱られていたかもしれません。アメリカにいた時、和子さんと久恵さんという名前の女性と知り合い、和子は平和の子、久恵は永遠の恵みという意味だと説明すると、日本人はなんて素敵な名前を付けるのだろうとアメリカ人の友人が言っていたのを思い出します。さて、エノクのお父さん、イエレドの名前からみてみましょう。この名前は、どんな意味を持っていると思いますか。イエレドとは、実は奴隷という意味なのです。ふつう、こんな名前はつけません。だから、親がつけたのかもしれませんが、本人が自虐的に自分自身に名付けた名前かもしれないとも思われます。親がつけたとしたら、この子が生まれて自分は子供に縛られてしまうと、まあ、望まれない子として生まれてきたのかもしれません。でも、当時子どもが生まれることは、今でも祝福ですが、それ以上にはるかに大きな祝福でしたから、親がそんな名前を付けることは考えにくい。すると、自分で自分を呪うような意味でつけた名前だったのでしょう。自分は不幸で、奴隷のようだと感じていたのでしょうか。それとも、何かにとらわれて、たくさんのものを持つことや、一目置かれることにとらわれて、ある時ふとそんな自分に気がついて、「あー、自分は奴隷のように不自由だ」と感じたのでしょうか。いずれにしても、あまり楽しい人生ではなかったのかもしれません。そんな彼に子どもが生まれました。彼のおじいさんが70歳、お父さんは65歳で子を産んだ事を思うと、162歳の時に子をもうけていますから、ずいぶんと年をとってからという事になります。この辺にも、子どもを持つことをためらうような事情があったのかなと思わされるものを感じるかもしれません。生まれた子をエノクと名付けました。エノクという名前は、イエレドと全く正反対の響きを持っています。「新しい家を拓く」という意味です。自分とは違う生き方を切り拓いて欲しいという願いを込めたのでしょう。エノクと名付けたのです。そのエノクは、65歳で子を与えられ、メトシェラと名付けました。槍の人という意味です。お父さんの生きざまを見て育ちました。少なからず、影響も受けたかもしれません。「新しい家を拓く」という名にそぐわない人生を歩んでいるなと感じていたかもしれません。あるいは、自分は新しい家を拓くものだ。それをさらに発展させてほしいと願って名付けたかもしれません。だから、子どもに槍の人という意味を持たせたのではないでしょうか。強い人。勝つ人。そんなイメージがわいてくる名前です。しかし、聖書は、この、子どもを授かるという事がエノクの人生に大きな変化をもたらした事を伝えています。それは、22節で、「エノクは、メトシェラが生まれたのち、300年神とともに歩み」と伝えている事で分かります。メトシェラが生まれたのちです。それまでは、神とともに歩むことはなかったのです。もちろん、神様を伝え聞いていたでしょう。信じると言っていたかもしれません。しかし、神とともに歩んだのは、子を授かることが契機となったのです。ただ神様を信じる事と、神とともに歩むことには大きな開きがあります。聖書は、多くを語っていません。わたしたちに、いろいろと想像して読み解いて御覧なさいと言っているようです。既に、エノクや、彼のお父さんの名前からいろいろと思い巡らしてきましたけれど、メトシェラが生まれた事とエノクが神と歩み始めた事とどんな関係があるのでしょうか。明らかにエノクは、息子に勝者になってほしい、強い者、大きいものとなってほしいと望んだのですが、それが、浅薄な考えであることを何かで学んだのだと思います。そのような者として歩むのは、主とともにではなく、主の前に歩む歩みといえるかもしれません。私が主人です。わたしが、私の力で、私の思うままに生きるのです。神様はこちらが頼まない限り口を出さないでください。そんな歩みです。しかし、主とともに歩むことこそ槍の人、強い人生なのだと気づく何かがあったのだと思います。子育てに苦労して自分の弱さを知り、自力で生きることのむなしさを知り、その所で神様と出会ったのかもしれません。そして、主とともに歩むことを知ってから確実な人生、本当に頼るべきものが何なのかを噛みしめる体験を環境の中での出来事で、また自分の心の中での出来事によって知ることになったのだと思います。彼は、神とともに歩み続け、神が取られたのでいなくなったと24節にあります。神とともに歩むことによって死を超えたのです。わたしは、知性によって理解できる事ではありませんが、彼は肉体的な死を見なかったのだと思います。しかし、それと同時に、この「神が取られたのでいなくなった」という言葉には象徴的な意味があると思います。死とは、肉体的な死ばかりではなく、精神的な荒廃の極みとか、絶望とか、そんな意味があるでしょう。生ける屍という言葉があるくらいですから。彼はそのような意味での死に打ち勝った。そのような死を超えた。どのようにして。神とともに生きることによって、そういう事を伝えているのではないかと思います。神とともに生きるというのは、すごい力があるのだなと思わされます。まだまだ、十分に神とともに生きていない自分だなと思います。とともに、私にも、皆さんにも、そのような超えた人生を歩む道は開かれているのだと思わされます。新約の時代に生きるわたしたちは、神とともに歩むことがなかなかできない弱さを持つ私たちのところに神様ご自身が来て下り、神様の方でわたしたちとともに歩んで下さるのだと言う事を聴いています。いや、旧約聖書でも、やがてインマヌエルなる神様が来ると伝えられていました。そして、その預言の実現をマタイによる福音書1章23節が伝えています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々とともにおられるという意味である」。そのインマヌエルなるイエスは、天に帰られる時こう言われました。マタイの28章20節です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主の方で、私たちと共にいる。世の終わりまで。つまり、どんなときにも、と約束して下さっています。この主を見上げて、エノクのように、主とともに歩むものとされた恵みを感謝したいと思います。

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