キリストと共に ローマ 6:1-12

読み続けておりますローマの信徒への手紙、6章に入りました。今日は、1節から12節までを司会者に読んで頂き、ここからメッセージをお伝えする事になります。ちょっと理屈っぽいメッセージになるかと思います。そもそもこの手紙はかなり論理的と言いますか、平たく言えば理屈っぽい手紙と言えると思います。神学論争なのです。片や、ユダヤ教の伝統の中で神の義を考える人たちがいます。その人たちは多数派であり、救いは行いによるのだと信じています。割礼を受け、安息日を守り、十戒を順守してというような様々な規則、規律を守って、つまり律法を守ることによって罪は赦されるのだと信じ、教える人たちがいます。それに対してパウロは、救いは信仰による。信仰のみによると語りました。すると、すでに3章でも見たようにいろいろな疑問、質問がなされるわけです。もし人の不義が神の義を明らかにすると言うならば、怒りを発する神は正しくないのではないか。もし人の偽りによって神の真実が明らかにされるなら、なぜなおも罪人として裁かれなければならないのだ。ついには、善が生じるために悪をしようと言えるのではないかと問いかけてくるわけです。この6章も、「では、どういう事になるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と始まります。これも、推測される論敵の反論を想定しての問いかけと言えます。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という5章20節の言葉を受けています。それに対してパウロは、「決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きる事が出来るでしょう」と答えています。この答えを足がかりに6章全体は語られているのです。ですから、この答えの意味をまず捉える事が大切という事になります。罪の中に生きる事が出来ないと言う。「罪の中に生きる」とは、どういう事でしょうか。それは、すべての人に共通の生まれたままの人間の生き方を言います。既に学んだようにユダヤ人も異邦人も、すべての人は罪のもとにあり、3章23節で読んだ言葉によるなら、人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。では、生まれたままの人の生き方、神の栄光を受けられない生き方とはどのような生き方かと言いますと、それは6章12節にあるわけです。曰く、罪に支配させる生き方です。具体的に言いますと、自分をはじめ、神以外のものを中心としてしか判断、決断、実行できないあり方です。自分をはじめと言ったのは、こういう事です。ある人は、自分中心ではない。困っている人、悲しんでいる人を助けたいと思って判断し、決断し、実行したのだというかもしれません。しかし、神を中心としていないならば、やはりそれは罪の中に生きている生き方だと聖書は言うのです。もっとも、心理学の研究者によらなくても、人のためと言いながら、そして、そういう側面は確かにあっても、やはり自分のため、自分が役に立っているというところに存在の足掛かりを得るためという事に気付くのではないでしょうか。そこまでくそ真面目に考える必要はないというかもしれません。しかし、神様は罪の問題についてくそ真面目なのです。そして、“罪に支配させる”の支配は、この章の他の個所で支配と訳されている言葉と違います。この支配は王の支配、絶対的な支配を言います。罪を、自分中心を絶対的な王様として支配されて生きることはもう出来ない、というのです。罪を全く犯さないとか、罪の性質から完全に清められて生きると言っているのではありません。私たちにそんなことは不可能なのは誰よりも神様がご存知です。しかし、その罪の中に生きる。正確に訳せば、いつもその中に生きる、当たり前のこととしてその中に生きることはもう出来ないと言っているのです。でも、ここでも私たちは感じるかもしれません。今まで、救いは恵みにより信仰による。行いによるのではないと、いわば耳に心地よい事をずっと聞いて参りました。ここにきて、罪の中に生きることなど出来ないと言われる。突然、毎日の生活のあり方、いわば行いについて言われているのではないか。そして、そうであるならば今まで聞いてきた事とどういう関係があるのだろうか。そう思うかもしれません。まず知らなければならないのは、罪の中にとどまらないあり方は、それによって救われるため、神様と和解するためではありません。救いは、和解はすでに完全に成し遂げられたのです。イエスによって。その救いをもう既に、完全に、100%頂いたものとしてどのように生きるかを語り始めているのです。それにしても、罪の中に生きない生き方がどのようにしてありうるだろうか。その事が3節以降で語られます。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けた事を。わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」このみ言葉全体の鍵はキリストと共に、キリストと一体という事です。私たちは、わたしたちのためにイエスが十字架にかかり、葬られ、復活させられたと言います。でも、実は私自身がキリストと共に、キリストにあって十字架にかかり、葬られ、復活させられたのだというのです。現実にそういう事が起こったのです。眼に見ることはできない、そう感じないかもしれない。しかし、霊的な現実としてそのことは起こったというのです。3節の「キリストに結ばれるために」は、キリストの中にという言葉の訳です。キリストと一体というと二つが一つにくっつけられていて、でも二つではあるみたいなイメージですが、ここでは完全に一つになっている。私たちがキリストのうちに入っている、その様な姿で主も、私も十字架にかかっているというのが本当です。また、死にあずかるも同じです。キリストが死なれる時、私たちもキリストの中に入ってしまっている。その状態で主は死なれ、私も死んだ。そして何が起こったか。復活です。キリストが死から甦らされた。それは神の栄光の業だったと4節は伝えます。そのように、わたしたちも新しい命に生きるために甦らされたのだ。キリストと一体という事は、十字架の死、埋葬、復活の出来事はわたしたちにすでに起きた出来事なのだという事です。だから死はもう支配しない。死は征服された。打ち破られた。6章23節に罪の報酬が死だとあります。罪と死は一体です。だから、死からよみがえらされた私たちは、罪の支配から解放されたと7節にあります。原文は、単純に罪から義とされたと書かれています。6節には罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためと書かれています。罪に支配された体とは、生き方の事を言っています。罪に支配されていた生き方。この支配は王様の支配ではなく、ご主人様の支配です。それに支配されるとは奴隷として仕える事です。そのような生き方から解放された。そして、11節では、わたしたちは罪に対して死んでいるけれどもキリスト・イエスに結ばれて神に対して生きているのだと考えなさいと言います。考えなさいとは、繰り返し、繰り返し考えなさいという事です。神様は、私たちは確かにキリスト共に復活したけれども100%復活の命を、いつも、いつも生きるのではない事をご存知なのです。つまずくのを知っておられるのです。罪はもう支配者ではないけれど、王様ではないけれどもその支配者の声を聞いてしまうことがままある事をご存知なのです。だから、そう考え続けなさい。いつも、自分はキリストと一体、新しい命、復活の命を生きるものなのだと確認しなさい。それがあなたのアイデンティティーなのだからと語るのです。そして、今日の結論です。12節。「従って」と始まります。この言葉は、今まで聞いたことから計算して、割り出してという意味です。体の欲望に従っていてはならない。五体を不義のための道具として罪に任せてはならない。任せてはならないとは、直訳すると近くに立ってはならないという意味です。罪の近くに立っていてはならない。具体的に言うならば、神様にそぐわない思いや考え、望みを暖めて思い巡らしてはならないという事です。火の近くにいると体が熱くなるように、そのような思いを暖めるならば罪の力を暖めることになるのです。どのようにして罪に支配させないのか。自分自身を神にささげ、五体を義のための道具として神にささげなさい。献げるという言葉が二回出て来ました。自分を神様に捧げよう。自分の人生を捧げよう。導いて頂こう。それに従おう。神様は、この地上の人生でわたしを用いて下さる。Die empty! 全部捧げて、空っぽになって主のもとに、天国に行けばいいではないか。時間も、能力も、全部捧げて空っぽになって世を去ろう。その思いに生きるのが復活の命に生きる事です。神様と一体になって生きる事です。そこに、あなたの持ち味は生かされ、存在の土台はしっかりとしたものになり、我、ここに有りという人生があります。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0