キリストに結ばれて一つの体 ローマ 12:3-8


先週は、自分を慎み深く評価するということについてお話ししました。慎み深く評価するとは、高慢にならないであるがままを認めて評価するということです。神様の一方的な愛を受けた者、キリストが私のために死んで下さった、そういう者、神様に高価で尊いと言われた者ということを畏れをもって、でも卑下せずにそのまま受け取ること。それが慎み深く自分を評価することだと学びました。それは、固定された評価として受け止めるにとどまるのでなく、その評価に生きることが大切であると聴きました。神様の恵みの中に生きることそのものだと聴きました。そのことを踏まえて4節の「というのは」という接続の言葉がわかってくると学びました。つまり、4節から教会生活のことが書かれるからです。教会生活だけではない、社会にあっての生活、市民としての生活についての勧めがあります。それらすべてに渡って、自分を慎み深く評価し、そこに生きること、神様の恵みと憐れみの中に生きることが土台となると学びました。まず、教会生活について書かれます。教会生活が、社会での生活に先行するからです。ややもすると、学生としての生活、会社員や公務員としての生活がまずあって、教会生活はその次のように生活してしまいがちです。しかし、キリストの恵みを知る者は教会生活を第一にしたくてたまりませんし、そうしますし、実は、そうしてこそ学生として、会社員としての生活は生き生きとしたものになるのであり、家族も生き生きとした家族になることを知っています。だから、パウロは教会生活から語り始めるのです。パウロは、教会は一つの体のようなものだと説明します。これはコリントの信徒への手紙一でも彼が用いた譬えです。その体はキリストに結ばれて一つの体を形作っていると5節にあります。この世の中には、いろいろな事で結ばれている体はたくさんあります。経済的な利益で結ばれているからだ。趣味で結ばれているからだ。お互いに好ましい、もう少し言えばお互いに好きということで結ばれている体もあります。でも、教会は違うのです。このことをわきまえることは教会の存続、健康にとって決定的な事です。これをわきまえていないと簡単に教会批判や牧師批判、教会メンバー同士の批判が始まりがちなのです。不和、不一致、分裂を引き起こすかもしれないのです。そもそも教会はエクレシアという言葉の訳語です。教会という文字を見ると教える会と書きますから何かみんなで勉強するのかしらとか、人としての在り方や道徳を教えるのかしらと読めてしまいますが、エクレシアにそのような意味は全くありません。外にという意味の言葉と呼ぶという言葉が合わさった言葉です。つまり、もともとそこにいなかった、他の集団に属していたのだけれど、そこから呼び出されて一つとされた集団というような意味です。私たちは、もともとキリスト者ではなかった。もともと教会のメンバーではなかった。でも、神様によって一人一人が呼び出されて、世から呼び出され、罪の縄目を解かれて一つにされた。それが教会だということです。ですから、人の側からみれば確かに私たちが自分でこの教会を選んだと言えるかもしれませんが、その私の意志をも包んで神様が呼び出してこの教会に加えて下さった、この群れ、このキリストの体に加えて下さったということなのです。そして、何の意味もなく神様は無作為に選んで私たちを集めたのではありません。キリストに結ばれた一つの体、この一つの体に集められたのでした。それは、お互いに部分として働いて支え合うためです。体として機能するためです。ですから、一人一人は違っていて、異なる賜物をいただいているのです。買ったことはありませんが、毎週、本と付録のような部品を買って、だんだんと船とか飛行機とかの模型を作り上げていく雑誌というのでしょうか、何と言えばいいのか分かりませんが、そのようなものをテレビで宣伝しています。もしも皆さんが飛行機なら飛行機を作ろうと思って毎週買うとして、同じ部品ばかりだったらどうでしょうか。永久に飛行機はできませんしどんなに良くできた部品でもそればかりでは役に立ちません。だから神様は、異なる人たちを呼び集めるのです。お互いに必要で支え合う者ですから上下や軽重はありません。一人一人が与えられている賜物を生かせばそれで十分です。6節以降には、そのような賜物のすべてではありませんが、例えば音楽の賜物は挙げられていませんが、いくつかが挙げられています。預言の賜物とは、御言葉の宣言をする賜物です。今でいえばメッセージをする賜物です。教える人が挙げられていますが、御言葉の宣言、解き明かしを受けて適切に人を励ましたり教えたりする賜物の人です。勧めるは教えると似ていると思われるかもしれませんが、元の意味は慰めを語るとか、隣にいるという意味です。傾聴の賜物、カウンセリング・マインドで人に接する賜物でしょう。8節の指導も似た言葉ですけれど、先頭に立つとか世話をするという意味の言葉です。御言葉を聞いて、それを生きようという思いの豊かな人、他の人もそのように生きるようにと励ますという意味で世話をする人でしょうか。また、奉仕の賜物が挙げられています。教会は、奉仕によって成り立っています。礼拝における奉仕はもちろん、快適な礼拝の場所、建物を維持する奉仕、愛餐の時の奉仕など、数えきれません。慈善に関しては、よきサマリア人の話を思い出すといいかもしれません。他人の必要に敏感な人、そこに携わる思いの豊かな人です。どれも素敵な賜物です。それら熱心に、そして快く行いなさいと勧められています。快くというのは、それをすると自分の得意な事をしているのだから気持ちがいいという意味ではありません。不満を言わないという意味の言葉です。人と比較するときに、賜物と賜物を比べるときに不満や不平が生まれるのでしょう。奉仕によって自分を価値づけようとしてしまい、そして、自分の奉仕が他の奉仕に比べて価値が低いと思い込むときに不満や不平が生まれます。
コリントの教会は、まさにそのことによって病んだ教会でした。まず、自らを慎み深く評価すること。そして、教会において、集められ、連ねて頂いたキリストの体であるこの教会において、キリストに結ばれた私たちなのだということを受け止めて、その中でいわゆる目立つ賜物であるとかそうでもないとかにかかわらず、主にあって自らの分を果たさせていただく。教会批判は、別に教えてもらわなくてもすぐに出来るようになります。しかし、慎み深く評価する生き方は一生続ける作業なのです。主は、その作業を、教会においてその作業を一人一人が祈り合いながら続けることを望まれ、そのように励まし、導いて下さるのです。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0