キリストに結ばれる キリストにつく ガラテヤ 3:26-29

メッセージを準備するに際して、ガラテヤの信徒への手紙6章26節から29節を新共同訳、口語訳、新改訳の三つの日本語訳で読み比べてみました。その中で、新共同訳26節、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」の“キリスト・イエスに結ばれて”、この言葉は同じ訳の27節でも現れるのですが、それと新改訳27節の「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたは、みなキリストを着たのである」の“キリストにつく者”という言葉に心が留まり、そのことからメッセージをするように導かれました。原文と読み比べてみますと、翻訳者はかなり工夫してこの訳をしたのだなと思います。そして、その工夫は内容を分かりやすくしているなとも思われるのです。私たち信仰者はキリスト・イエスに結ばれている。また、私たちはキリストにつく者である。そのことから、思いを巡らしたいと思います。まず、キリスト者はキリストに結ばれて神の子とされていると読みました。結ぶという言葉から、どんなことが思い浮かぶでしょうか。私がそのことを考えたときに思い浮かんだのは靴紐でした。靴紐は一本の紐なのですが、その両端が結びあわされていないと足元が安定しないばかりか、時として危険な事すらあります。中学生の時、クロスカントリー競技に出場しました。場所は、この場所とはっきり示す事は出来ませんが狭山湖の近くだったと記憶しています。クロスカントリーというのは、競技場のトラックをぐるぐると回るのではなく、ゴルフ場のようなところを走ってタイムを競うのです。何人ぐらいの選手が出場していたか覚えていませんが、かなりの数でした。その日は体調がよく、途中までトップとは今ないまでも、わたしとしてはまあまあの順位につけていたのです。しかし、ハプニングが起きました。右足の靴の紐がほどけてしまったのです。今から思えば、ちょっと時間をロスしてもいいから止まって結びなおせばよかったのですが、わたしはパニックに陥っていたのでしょう。焦ってしまい、何とか抜かれるまいと必死で走りました。しかし、靴紐はますます緩んでしまい、足を引きずらなければ靴が脱げてしまう状態です。コーチが、「石井、紐を結べ」と言っているのは聞こえたのですが、完全に我を忘れていて、どんどん順位を下げてしまい、かろうじて完走だけはするという結果でした。転ばないだけ良かったとも言えます。靴紐はしっかりと結ぶこと。それで初めて足元が安定して一歩一歩歩む事が出来ます。緩んでいると、初めは“これ位”と思うかもしれませんがどんどん緩んでしまいます。もう一方の足で紐を踏んで転倒し、けがをするかもしれません。ポイントはこういう事です。わたしたちは、信仰によってキリストに結ばれていて、それで神の子として機能するのだ。信仰の紐が緩んでいても神の子には違いないかもしれない。しかし、機能しないのだ。神様に聴き、また語り、導かれて歩むことが難しくなるのだ。よろめくのだ。うっかりすると転んでしまうのだという事です。もし、今緩んでいるかな、と思う方がおられるならば、立ち止まって結びなおしましょう。まあ、これ位なら、と思わない事です。“結ぶ”という言葉から連想されるもう一つの事は、やはり結婚でしょう。エフェソの信徒への手紙5章31節には、創世記2章24節を引用しつつ、「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大ですわたしは、キリストと教会について述べているのです」とあります。人と人の結婚が二人を結びつけて一体となるように、イエス・キリストと信じるものは結びつけられて一体となるのです。二人は生活を共にし、財産を共にします。“共に”というのがキーワードです。イエスを信じるものは、イエスと共に人生を歩みます。主に語り、主に聴き、その聞くところに従って人生の歩を進めます。ただ、人間の夫婦の場合は対等のパートナーですが、主イエスとわたしたちは、その言葉の示すとおりイエスが主です。わたしたちは、自分の思いや経験と主の言葉、神の言葉が一致しない時、主の言葉に従うのです。その決心をして、初めて「主イエスの名によって」祈る事が出来るのです。財産の共有と申しましたけれど、主イエスとわたしたちにおいては、わたしの財産は何もありません。主の財産。つまり、罪の赦し、神の子として愛され、導かれること。そして、やがてイエス・キリストと共同の相続人として天のすべての祝福を頂くこと、決して自分で手にすることのできない、触れることも、見る事すらも出来ないそれらのものがキリストにあってわたしたちに与えられているのです。今日の聖書個所、もうひとつ、「キリストにつく」という言葉にも注目するのでした。誰につくかは大切な事です。外交においてだれと共にあるのか、ちょっと嫌な事ですが、職場でどの上司につくかということも重要かもしれません。勝敗にかかわるからです。さて、この“つく”という言葉が勝敗にかかわることだとしたらキリストにつくとは、どんな戦いについて言っているのでしょうか。それは解放の闘いです。自由をもたらす戦いです。イエス様は、神と富みとに兼ね仕える事は出来ないとおっしゃいました。言いかえれば、世につくかキリストにつくかであって、二股をかける事は出来ないとおっしゃったのです。イエス様が富といい、わたしが世と言ったのは世の基準、評価、価値観の事です。その側につくか。それともキリストにつくのか。キリストにつくとは、世の評価や価値観ではなく、神様の価値観基準の側に立つ事です。世につくとは、結局自分を大きくし、自分を喜ばせ、自分が実を刈り取ることを目的とする事です。キリストにつくとは、神様に栄光を帰し、神様に喜んでいただく事です。大雑把な言い方ですが、世につくとは自分の思い、さらに言えば欲望に仕え、物や人にも自分に仕えさせることであり、キリストにつくとは神様の思いを第一とし人に仕え、自分のものも自分だけのためでなく神と人のために使う事を考えるという事です。わたしたちは、以前は世に仕えるものでした。出来るなら成功者、大成功と言わずともそれなりの成功者、つまり人にちょっとうらやましいなと思ってもらえる程度の者にはなりたいと思っていたかもしれません。そして、そのようになる事が人生という、ある意味戦いに勝つことだと思っていたのです。多くの人が、そのように思っているのではないでしょうか。そして、疲れているのではないでしょうか。あるいは、戦線離脱して、あきらめて、目的を見出せないで生きていたり、いきがってみたり、すねてみたり、最悪の場自らこの世を去ってしまったり…。でも、それは本物の生き方ではない。自分を解放する戦いではない。世についていてはあなたが生きない。キリストについたらどうだ。キリストを主としたらどうだ。そう、わたしたちがキリストについて生きる事によって、また、ある時には言葉で伝えること、それが神様から頂いた使命なのです。なんだか、大げさな言い方になってしまいましたでしょうか。でも、しり込みしないでほしいのです。イエス様自らおっしゃいました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとにきなさい。休ませて上げよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書11章28節の言葉です。世につく生き方は疲れるのです。重荷なのです。主は招いておられます。わたしにつきなさい。わたしの側に来なさい。くびきとは二頭の牛をつないで共に行動させる道具です。イエス様のと共に行動しなさい。イエス様と共に生きなさい。そうすれば、あなたは解放される。確かに全く荷がなくなる事はないだろう。でも、あなたが不安に圧倒され、つぶされてしまう事はない。イエス様が一緒だから。だから、そこには安らぎがある。最後に、何があなたとイエスを結ぶのか。何が、あなたをキリストにつく者とするのか。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなた方は皆、キリストをその身に着たのです。」イエスを救い主として信じ、バプテスマを受けなさい。それによってあなたはキリストに結ばれ、キリストにつく者とされるのです。

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