キリスト・イエスに結ばれている ローマ 8:1

ローマの信徒への手紙8章1節を読んでいただきました。先週は7章7節から8章1節をテキストとして神様に聴きましたが、今日は8章1節をもう一度取り上げてメッセージを取り次ぎたいと思います。そこには、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とあります。この1節の中にも心惹かれる言葉がたくさんありますが、「キリスト・イエスに結ばれている者」という言葉を思いめぐらしたいと思います。この言葉、口語訳聖書、新改訳聖書では「キリスト・イエスにある者」と訳しています。英欽定訳聖書では「who are in Christ Jesus」とありました。原文と照らし合わせてみると、この英欽定訳聖書の役が一番原文に近いようです。つまり、日本語にすれば「キリスト・イエスの内にある者は」となるのです。キリスト・イエスの内にある。包み込まれている、囲われているという意味です。私たちは、親の愛情に包み込まれていると言うことがあります。ギリシャ語の表現は、そんなニュアンスを伝えます。今日は、キリスト・イエスに結ばれている、内にある、包み込まれているとはどのようなことなのかを考えたいと思います。これは、わたしたちのアイデンティティーに関わるものです。これからお話しする事を聞きまして、どうも自分はそんなものではないと思う。それが自分とは感じられないと思われるかもしれません。しかし、神様は、あなたはこのような者だ、いや、キリストによってこのような者にされたのだとおっしゃっています。まず、私たちは何に結ばれてはいないのか。あるいは、以前は結ばれていたけれど今や何には結ばれていないのかを考えましょう。最初に、私たちはアダムの内にあったが、今やアダムの内にはない、もうそこには結ばれていないということです。それは、すでに5章12節以下で語られたことでもあります。アダムとキリストが対比されていました。アダムよって罪と死がもたらされたが、キリストによって恵みが、命がもたらされたと読みました。私たちは、いわばアダムの家族の一員であって皆その内にあった。その家族は罪と死が支配していた。私たちは家族の内に生まれると、その家のやり方とか考え方、雰囲気に影響を受けます。勉強第一という考えの親のもとではそのように育てられるものですし、のびのびとやりたいことをやるのが良いのだという家風だとそのように育てられます。そして、その考え方は知らず知らずのうち自分の内に根付いてくるものでしょう。いつも明るい家族がある一方でなんとなく暗い家族もあるかもしれない。そうすると、わたしたちはその雰囲気に染まるといいますか、影響を受けるものです。私たちはみなアダムに結ばれていて、その故に罪に縛られ死に支配されていた。しかし、キリスト・イエスにある者はそこから救い出されて恵みと命のもとにあると聴きました。私たちはアダムの内にはありません。次に自分に結ばれていないのです。ここで言う自分とは自分が、自分がという思いです。自分を真ん中に置いて、さて何をしたいだろうか、何が欲しいだろうかと考え、そのためには学問が必要だ、経験も必要だ、お金も必要だ、人も必要だ・・と積み上げていく考え方、あり方を自分に結ばれている、自分が自分の中にいると言います。学問や経験、お金など、どれも悪いものではありません。しかし、自分の目的や利益、自己実現感が目指すところであるならば、その人は自分というものに結ばれているのです。しかし、わたしたちは今やそのようなものではないと神様はおっしゃいます。さらに、わたしたちは人に結ばれていません。あるいは世間に結ばれていません。人や世の中の評価に縛られて自分をそこに合わせるという生き方に結ばれていません。なんと多くの人が三角なのに丸でなければならない、四角なのに丸でなければならないともがき苦しんでいるでしょうか。ここで丸というのは、こういう人が幸せなんだよ、という人が決めた幸福の基準です。私たちはそこの内、そのような考え方の内にあったけれど、今はもうそこに結ばれてはいないのです。それらにではなくキリスト・イエスに結ばれて、キリスト・イエスの内にあるのです。それでは、キリスト・イエスの内にあるとはどういう事か。自由だという事です。真理はあなた方を自由にするとイエス様はおっしゃいました。(ヨハネ 8:32)ここで自由とは、イエス以外に結ばれている、いや、むしろ縛られていることからの自由です。アダムの内にいないと申しました。アダムのもとからの自由です。自分に結ばれていないと申しました。自分自身にすら縛られていない。人や世の評価に結ばれていないと申しました。それらからの自由です。私たちは自由にされました!でも、先週もお話ししましたが、自由というのは野放しという事ではありません。野放しになるくらいなら不自由の方がまだいいかもしれません。何かからの自由は何かへの自由でした。何かに結ばれていないという事は別の何かに結ばれるという事なのです。そして、私たちは素晴らしいものに結ばれることとなった。神様の恵みと目的に結ばれたのです。恵みに結ばれたという事は、これも先週のメッセージの繰り返しになりますが帰るところがあるという事です。罪を犯しても帰るところがある。罪を犯すのは私たちに依然として罪の性質があるからです。罪の性質があっても帰るところがある。だからいつも喜んでいる事が出来る。私の罪は赦された!イエスは私のために死なれ、葬られ、そして復活して今生きておられるのだ!と宣言する事の出来る恵みです。聖霊様が今日も私のために執り成しの祈りをして下さっているのだと叫ぶ事が出来る恵みです。神の恵みに結ばれている。そして、神の目的に結ばれています。自分に結ばれている時は自分がしたい事が目的でした。あれがしたい、これがしたい、そのためにあれが必要だ、あれを手に入れなければならない。私が、私がという世界です。しかし、神様の目的に結ばれる時、神様が主役になって下さいました。神様があなたの人生を拓き、導き、神様の目的のために導いて下さるのです。私は、あれをしたいなー、こうなると良いなーと夢見る事はあります。でも、自分で道を拓いて自分の力で、という風に思わなくなりました。何もしない。神様が、ご自分の時に道を拓いて下さるのです。だから、思いがけない事があった時、もしかしたら神様が何かを始めるのかしらと思います。先々週の日曜日、みなさんがお帰りになった後、夕方遅くに犬の散歩に行きました。桜ケ丘公園を一周しようかしらと思ったのですが、まだ思ったより熱かったのでどうしようかしらと考え、結局そこの坂の下のお蕎麦屋さんのところで右に曲がって戻ることにしました。シェア・ハウスの前の坂を上がって来たのですが、向こうから若い女性が歩いて来ます。さて、知っている女性のようだけど、どなただったかしらと思いながら歩いて行きました。すると先方から「石井先生」と声をかけて下さいました。この町で福祉事業をしているMさんです。この教会にも一度来られた事がある方です。短い立ち話をしました。どこか空き家を知りませんかと尋ねられました。フードバンクに大量の食料品の寄付があるのだけれども置き場がないというのです。その時は、ふさわしい空き家は思い浮かばず、多分適当ではないだろうと思いながら2件ほどの空き家がある事を知らせました。その時はそれで終わりです。でも、この出来事には何か意味があるのではないかというような予感がしたのです。翌日、斎藤主事から電話がありました。春の野外礼拝をする広場を思い出して下さい。お世話になっている不動屋さんがあのそばの家を三件買うのだけれど、すぐにそれを壊してといった計画がないので3年の間、使ってくれないか、家賃は安くするのでという話があったそうです。主事とは、教会として地域に貢献できる事を増やしていきたい、子ども関係かしら、お年を召した方のための何かかしら・・と話していたのですが、この物件を使いなさいという神様の導きを感じたのです。そして、広い物件なのでMさんと共同で使えば家賃も半額で済むではないかという事でMさんに話したところ、渡りに船だったのです。この教会はキリスト・イエスの目的に結ばれていると実感する出来事でした。今日、先週に引き続き、このことについて皆さんとお話しすることになりますが、神様の業であるならば、さらに道を拓かれるでしょう。みなさんが神様の前に静まり、あなたは私を通して何をなさいますかと祈る時、神様はあなたの目的に導いて下さいます。私たちは、キリスト・イエスに結ばれているのです。神様の恵みと目的に結ばれているのです。その事を信じて宣言して下さい。そして、恵みに結ばれているのですから日々罪を告白し、赦しを感謝し、そして目的に結ばれているのですから「主よ、私はここにいます。用いて下さい」と祈りつつ、主のなさる御業を期待しましょう。

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