リーダーの孤独と励まし 出エジプト 33:12-23

今日のメッセージの代をお聞きになって、あるいは自分はリ-ダーではないから関係ないと思った方がいらっしゃるかもしれません。確かに全員が職場や地域でリーダーの立場にあるわけではないでしょう。しかし、自分の人生のリーダーではあるはずです。そして、その中で孤独を感じたり、不安を感じたりすることはあるはずです。その意味で、今日のメッセージは、いわゆるリーダーの立場に立たされている方々だけでなく、すべての人へのメッセージなのです。さて、モーセは、この時弱気になっていました。人々をエジプトから導き出し、シナイ山で律法を授かり、それを伝えに山を下りたところ人々は神様のことなど忘れて金の子牛の像を作って、それを礼拝していたのです。愕然。あんぐり。今まで私は何をやってきたのだろう。神様の御心に従って働いてきたのではなかったのか。その後、人々は悔い改め、モーセは宿営から離れたところにポツンとある天幕でこれから神様がどうされるのかを伺います。でも、モーセは深い孤独感と不全感を感じています。弱気になっています。そんな中で、モーセは神様に尋ねるのです。「あなたが民を率いるようにと言われました。民を率いるようにと言われましたが、彼らはすぐに偶像礼拝に走ります。悔い改めていますが、今までもすぐに水がない、肉がないと言った民です。あなたがするように言われた仕事、苦労は多く成果は少なそうです。本当に彼らはこれからついてきてくれるのでしょうか。わたしは孤独です。一緒にこの御業をする人がいません。スポークスマンだった兄のアロンは一緒に小牛を拝んでいました。ヨシュアは忠実ですけれど経験の浅い若者です。」そして言います。13節。「あなたの道を示してください。」この言葉はどんな意味で言われたのでしょうか。不安だから、いついつまでにこうなって、これこれの時にはこの地点まで進んで・・というように具体的な神様の計画の工程表を教えてほしいという事だったのかもしれません。わたしたちは、彼の気持ちが良くわかるのではないでしょうか。祈って、示されて、例えば教会、例えばこの仕事。しかし、ことごとくうまくいかない。本当に神様のビジョンだったのだろうか。わたしには荷が重いミッションではないだろうか。それでも神様の御計画ならば、具体的にこれからのことを教えてください。いつ、今の困難は解決し、いつ素晴らしいことが起こり、いつ完成するのか。工程表を示してください。同労者も欲しい。分かってくれ、苦労を共にし、わたしの足りないところを補ってくれて・・、そういう仲間をあなたは与えてくれません。そんなモーセに、そしてあなたに神様はおっしゃいます。14節。「わたし自らが同行し、安息を与えよう。」心配するな。私が共に行く。大切な仲間、夢を共にする仲間、家族もいるだろう。それらの人たちもわたしが与えた人たちだ。でも、何よりも私自身があなたと共に行くのだということを憶えなさい。信じなさい。イエス様の弟子たちに目を移してみましょう。今まで3年間一緒におられたイエス様。目の前に見て、声を聞いて、なさる奇跡を目撃したイエス様が天に帰られるとき、弟子たちは同じ孤独感と不安を感じたでしょう。それを知られるイエス様は何と言ったでしょう。マタイによる福音書28章20節。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」口語訳では、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と訳しています。見よ!しっかり心に留めよ!あなたの勇気の源は優秀な同労者が第一ではなく、見よ!私イエスが、世の終わりまでも、つまり、どんなことがあっても、いつもあなた方と共にいるのだ!モーセが聴いた言葉と同じ言葉です。なおもモーセは言います。18節。「どうか、あなたの栄光をお示しください。」私が確信を持てるように、それが本当だということをもっと示してくださいということです。神様は、三つのことをおっしゃり、あるいはされました。まず、「あなたの前に主という名を宣言する」ということです。わたし、神が主であることを宣言する。あなたの人生の物語の主役はあなたではなく私であることを宣言する!力強いお言葉です。そして、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」これは、神様は恵もうとする者と恵まないとしたものを分けているという事ではありません。「モーセよ、わたしはあなたを恵もうとしているのだ。憐れもうとしているのだ。わたしはあなたを恵むのだ。憐れむのだ」という宣言です。そして、三つめは言葉ではなく、ある行いによって神様はメッセージを伝えました。モーセを岩の裂け目に入れ、そこを神様が通り過ぎる。その時、神様が通り過ぎるまでモーセを手で覆う。神様が手を離すとモーセは神様の後ろを見るけれども顔を見ることはできない。そういう事です。これは、何を伝えているのでしょうか。わたしたちが、今現在の出来事を正しく評価することはできないことが多いということです。あるいは困難、苦難でしょう。愛する人と別れなければならない。出会いたくないなと思う人と関わらなければならない。病や経済の問題、いろいろありますね。今は、ただ嫌なこと、避けたいことと思われるばかりかもしれない。しかし、後になって神様の後姿を見る。後になって、その出来事の正しい評価を知る事が出来る。そういう事です。ハレルヤ、今素晴らしい。ハレルヤ、今恵まれている。そういう事もたくさんありますし、それは感謝すべきことです。しかし、すべてがそうではない。むしろ、大切なことは、後になって神様の後姿を見るように、後になって「ああ、こういう事だったのか。感謝です」と告白するようなことが多いから一喜一憂するな。これが神様がモーセに伝えたかった事、そして私たちに伝えたいことなのです。でも、いつか私たちは後ろ姿ではなく、神様の顔を拝するときが来ます。コリントの信徒への手紙13章12節。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」わたしたちにははっきり知る事が出来なくとも、神様にははっきりと知られています。神様は、ご自分のなさっていることをご存知です。だから、信仰と希望、そして愛をしっかりと持とうではありませんか。

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