主の手 民数記 11:18-23

教会の農園の世話をして下さるNさんという方がおられます。この方は、農業の専門家ではなく、もともとは大工さんだったそうです。なるほど、手を見るとサラリーマンだった方ではなく、職人さんだったという事が分かります。今、職人さんと言いましたが、以前牧会していた教会に和食の職人さんが二人いましたが、やはり事務職の人とは違う手をしていました。今はワープロソフトを使って文章を書くことが多くなりましたが、ペンを使って書いていたころは文屋さんや事務職の方の手にはペンダコがあるのでそれと分かりました。手を見ると、その人がどんな暮らしをしてきたのか、どんな仕事をしている人なのかが分かるものです。手はいろいろな働きをします。ですから“手”という言葉はいろいろな熟語に使われています。働き手とか助けてとか、受け手とか担い手とか、また手が足りないとか手先になる、手を借りる、猫の手を刈りたいなど、まだまだあるでしょう。今日読んだ聖書個所の中に、23節ですが、「主はモーセに言われた。『主の手が短いというのか。わたしの言葉通りになるかならないか、今、あなたに見せよう』」、とありました。この“主の手”という言葉をテーマとしてメッセージを伝えようと思います。手がその人の働きを現すと申しましたが、主の手は何を語るのだろうか。どんな働きを語るのでしょうか。まず第一に、それは、支える手だという事です。イザヤ書41章10節には、「恐れる事はない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える」とあります。どんな時も共にいて支えて下さるという約束です。学生の頃、山に登りまくっていました。厳冬の南アルプス、赤石岳に登っていた時、稜線でオーバーズボンの裾にアイゼンを引っ掛けて転倒してしまいました。勢いがついたらもうどうにも止まらない。谷底まで滑って行って、林に突っ込んで確実に死んでしまいます。本能的に体が反応してどうにか止める事が出来ました。でも、立つ事が出来ません。少しでも動いたら、また滑り出してしまうからです。わたしが止まったのを見てリーダーがザイルで自分の安全を確保しておりて来てくれ、手を差し伸べてくれました。彼に起こされ、支えられて立ち上がり、稜線に戻る事が出来ました。リーダーの手もそうですが、あそこですべりが止まった事も信じられません。後で聞くと、仲間もみんな山岳死亡事故が一件起こったと信じて疑わなかったそうです。あの時、神様がわたしを支え、助けて下さったとしか考えられないのです。神様の手は抱く手でもあります。迷える羊のたとえ話をご存じだと思います。100匹のうち1匹が群れから離れて迷子になります。羊飼いが血眼になって探しだす話です。この一匹はわたしであり、羊飼いはイエス様です。神様を離れて危険な荒野をさまよっているわたしたちを見つけ出し、叱ることなく抱いて下さるイエス様の姿がそこにあります。わたしたちは、実は毎日この一匹の羊になってしまうのではないでしょうか。神様を忘れ、自分の欲のままに行きたい道を行き、やりたい事をしてしまうのではないでしょうか。そんな時、神様はあなたを探しておられるのです。そして、あなたがふと神様から離れている事に気がつき、あるいは行き詰ってしまって困惑している時、神様は支えの手をのべるだけでなく、叱ることなく抱いて下さいます。第三に、主の手は掬う手でもあります。山で湧水を飲む時、コップではなく手ですくって飲むのが好きです。水の冷たさやきめの細かさが伝わってくるからです。水が分かるのです。主は、わたしたちの思いを手ですくって下さる方です。わたしたちの思いを感じ取って下さる方です。ヘブライ人への手紙4章15節、16節に「この大祭司(つまり、イエス様)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあるではないですか。あなたが祈りの中で思いを申し上げる時、その思いの底までも掬い取って下さったと知りましょう。本当に分かって下さったのだと知りましょう。その先は、お任せしましょう。次に、主の御手は力と守りの手です。詩編118編13節から16節。「激しく責められて倒れそうになったわたしを主は助けて下さった。主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなって下さった。御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す」とあります。わたしは、毎日この主の助けと力を体験していると思います。牧会は祈りによらなければ出来ない事です。主の助けを求めながら出なければ出来ない事です。そうすれば、完全な牧会が出来るという事ではありません。失敗もすれば迷惑もかける。いやな思いをさせることも言ってしまったりする。その時に謝る勇気も含めて主に支えられて始めて何とか働かせてもらっていると感じます。でも、この力と守りの御手は、みなさん一人一人の毎日の生活の中にも確実に働いています。そのことを思い巡らしていただきたいと思います。最後に、主の手は釘あとのある手です。トマスは、十字架の時の手の釘あとを自分で確かめなければ決して主の復活を信じないと言い張りました。しかし、その復活の主の釘あとを認めた時、「わが主よ、わが神よ」と叫んだのでした。映像として釘あとを見たから本当に主が復活したのだという事で叫んだという事も出来るでしょう。でも、同時に、その釘あとを見て、“ああ、本当にイエス様はわたしの罪を贖って下さったのだ。わたしの代わりに、手に釘を打たれ、十字架につけられ、罪の裁きを受けて下さったのだ”という、その圧倒的な思いから「わが主よ、わが神よ」と叫んだのだと思います。このような、主の御手。どのようにして、この釘あとのある主の御手によって支え、抱き、救い、守って頂くのでしょうか。。まず、聴き、語る事です。デボーションをする事です。一人で、と共に教会で主に聴き、語る事です。教会と共に聴き、語る事です。

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