二つの道 ローマ 9:30-33

今日は、ローマの信徒への手紙9章30節から33節をお読みいたしました。神様に出会う道は二つあります。神に出会うということは、罪の問題が解決されるということです。罪が、神とわたしたちの間を隔てるものだからです。それは、イザヤ章59章1節と2節に「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」とある通りです。この「救えないのではない」を「出会えないのではない」と読み替えるとより分かりやすいと思います。なぜ出会えないのか。罪があるからだと言っています。罪と訳されている言葉のもとの意味は“的外れ”ということです。神様が見えないという的外れ。自分が神様の作品としてユニークに造られているという事を知らず、また認める事のない的外れ。他の人と比較して自分の方が優れていると誇ったり、劣っていると卑下する的外れ。自分の願望、欲望を第一とする的外れ。そのような的外れの為に愛、喜び、平和、寛容といった実を結ぶのではなく敵意、争い、怒り、利己心、妬みといった実を結んでしまうわたしたちです。その、罪の問題を取り除いて神様と出会う二つの道、それは、いわゆるキリスト教と言われているものの他にもうひとつ、何々教があるということではありません。二つの道、両方とも聖書に記されている真理の道です。一つは信仰による道、もう一つは律法による道だと、今日、わたしたちは読みました。最初に律法の道を見てみましょう。31節を読むと、それは“達する”道だとあります。つまり、成し遂げる事が必要な、そういう道だということです。32節を読むと、さらに行いによって達する道だという事が知られます。律法というと、聖書に馴染みがなく十戒のことを知らない方であってもその中に記されている、例えば「殺してはならない」とか「姦淫してはならない」、あるいは「隣人の家を欲しがってはならない」、つまり、人のものを欲しがってはならないといった事を思うのではないでしょうか。そして、自分は人を殺したことなどないし姦淫したことも盗んだこともないと思うでしょう。しかし、イエス様は自分とは無関係のことだと安心していることはできないと告げました。腹を立てる事、「あいつは愚かな奴だ」という事、つまり人の人格を蔑むことは神様の前には殺したと同じ事だとおっしゃったのです。人を蔑むことの極致が殺してしまうことでしょう。そこまでには距離があるとしても、腹を立てる事は同じ線の上にあるのだ。そして、神様の目には距離はないのだとおっしゃったのです。姦淫も同様です。実際の行為はなくともみだらな思いで見るならばすでに心の中で姦淫を犯したのだとおっしゃいました。私たちは欲望の目を持って異性を見てしまう事があるものだと神様はご存知なのです。そして、実際の行為はなくとも、そこまでには相当な距離があっても同じ線の上にあり、神の目に姦淫を犯したのと同じだとおっしゃるのです。人のものを欲しがってはならないという戒めになりますと、かなり安心して自分にも覚えがあると認める事が出来るかもしれません。持っている品物だけではありません。才能や恵まれた環境、親のおかげで苦労なく上の学校に行けるなどを羨ましいだけでなく妬ましくも思ったことは一度や二度ではないでしょう。そのような律法をすべてクリアする。今から決心して律法を守ろう。それも出来る事ではないでしょう。でも、たとえ今から出来たとしても今までのことはやり直すことはできません。それらを全部やる、それが31節の律法に達するということの意味です。そう考えると32節にありますが、イスラエルの人が行いによって達せられると考えたというのは不思議なくらいです。この道は、確かに目的地に続いていますがどうしても越えられない崖や川がいくつもある道のようなものです。もう一つ道があります。それは、得る道だと30節にあります。この“得る”は、オリンピックのメダルのように自分の力で獲得するという意味ではありません。与えられて得るという意味です。求めなかったのに得たとある通りです。求めなかったというのは、そもそも神様に出会う、罪が赦されることに無関心だったということではありません。異邦人も皆神に出会うことを求めます。ひたすら座ったり、滝に打たれたり、思索に思索を重ねたり…。いろいろな方法で神様に出会おうと求めます。しかし、律法によって出会おうとは求めなかった。同時に、彼らの方法によって神様に会うこともなかった。それでは、どのようにして出会ったのかと申しますと、信仰による義を得たとあります。30節です。パウロは、これ以上説明しません。すでに、今まで語ってきた事だからです。信仰とは信じる事です。イワシの頭も信心と何でもいいから信じる事ではありません。イエス・キリストを信じる事です。神様が送って下さった救い主、御子イエスが全ての律法を守って下さった。つまり、律法の道の要求を満たして下さった。そして、律法の要求をすべて満たしたという、その事実を私やあなたに与えて下って、満たすことがちっとも出来ないというわたしたちのあり方を引き受けて下さった。それを引き受けて下さったということは、神の裁きを受けて下さったということです。十字架で死んでくださった。それは、わたしの、あなたの罪の裁きだった。それを引き受けて下さった。そのことを信じるのが信仰による義を得る道です。32節に「彼らはつまずきの石につまずいた」とあります。つまずくというのは、人間の理屈や理解によってとらえる事が出来ないのでばかばかしいと退けてしまうということです。律法と言わずとも好い事をして、清い心を培って、立派な人間になって・・という方が分かりやすいです。そして、自分はそれが出来ると思いたいものなのです。信仰による義は、この自分への期待、信頼を捨てる事の上にあります。自分で義を追い求める事を諦める事の上にあります。それは、辛いことです。かっこ悪いと思うかもしれません。しかし、人の目にかっこ悪い事が神様の目には尊いのです。10章11節には、「主を信じる者は、誰も失望する事がない」と書かれています。かっこ悪いかもしれない。人は、行いによって達する方がたくましいと、そして、信仰によるのは弱い人のする事だというかもしれません。しかし、真の強さは自分のありのままの姿を見据える事が出来る人です。その人は、人と比べることなく、人の弱さをあげつらうことなく、誰も達する事の出来ない律法の道ではなく、達する事の出来ないわたしたちの為に備えて下さった信仰の道を選ぶのです。

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