人生いつからでも立ち直せる ヘブライ 11:31

今日は、女性の日です。一般的には母の日とされていますが、わたしたちの教会では、もう少し幅を広げてと言いますか、母も含めて女性の日としています。それにちなんで、だれか聖書の中の女性にスポットをあてて、彼女の人生から神の言葉を聴きとろうと思いました。本当に魅力的な女性がたくさん登場する聖書です。もちろん、人間の世界を舞台にして語られているわけですから悪女も登場します。そのような悪女の中にも私たちは自分自身の姿を見るわけですが、今日は、悪女でない方と言いますか、神様から離れた、もしかしたら背いた生活をしていたけれども、そこから神様を知るに至った一人の女性を取り上げたいと思います。その人の名前はラハブと言います。

今日お話しする彼女のお話は、ヨシュア記2章に記述されています。時間の関係で、読むことが出来ませんので、ぜひ後でお読み頂きたいと思います。彼女の生きた時代はユダヤの民がエジプトから解放された、出エジプトの時代です。でも、彼女は、ユダヤ人ではありません。カナンという土地にあったエリコという町に住んでいました。何歳だったのかは不明ですが、結婚はしていませんでした。そして、娼婦でありました。娼婦はいつの時代、どの国や場所でも身を落とした人と見られて差別されていました。一人一人に、どうして娼婦になったのか、悲しい物語があるに違いありません。ラハブは、どうして娼婦になったのか聖書は触れていません。貧しい両親と自分の生活を支えるためにやむなくという事だったかもしれません。あるいは、もともと結婚していたけれども離婚することとなり、すると当時の女性としては生きていくためにやむを得ない選択だったのかもしれません。悪い男にだまされたのかもしれません。聖書がその事について何も語らないのは、彼女の過去に触れる必要がない、神様は彼女のその部分に関心がないということを伝えているように思えます。人間は、得てして人の過去に興味を持ち、それを面白おかしく話題にするようなところがあります。そのような興味の上に成り立っている雑誌やテレビ番組にもお目にかかります。しかし、神様が関心を持たれるのは、いつもわたしたちのこれからです。ここに神様の優しさがあります。さて、ラハブですが、すでに申しましたようにユダヤの民ではなくカナン人です。カナンには様々の神がありました。その中には、バアル信仰やアシュラ信仰もあります。ラス・シャムラ文書という資料によるとバアル信仰は性的なむさぼりを美徳とするようなものでした。アシュラは、やがてアシュタロトとして聖書に出てくる豊穣の神です。いずれにしても、人を犠牲として捧げたり性的な放縦に走るなど、退廃したものでした。ラハブは、そのような偶像の、つまり人間が考え出した神々に囲まれて育ちました。拝むために神殿に行ったこともあるでしょう。そんな彼女ですが、ある時、不思議な話を聞きます。エリコは重要な通商路の上にある町でしたから多くの旅の商人たちが通ります。彼らから聴いたのでしょう。あの、エジプト大帝国から無力な奴隷に過ぎないユダヤ人たちが神に導かれて出国し、ラハブの住むカナンの地に向かっているというのです。葦の海の水が神様によって分けられて、彼らは渇いた地を通る様にして海を渡ったというのです。追いかけて来たエジプト軍は戻ってきた水に飲み込まれてしまったというのです。シナイ山で神様から律法を授かり、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて進んで来るとのことです。オグやバシャンという王様の治める国は彼らに打ち破られ、もう、すぐ目の前まで来ているというのです。どんな律法を授かったのかも漏れ聞こえていたかもしれません。それは、神が聖なる方であることを示すものでした。でも、この事は彼女だけが聞いたのではありません。町の全ての人、大人から子どもまでみんなが聞いたことです。でも、ある人は全く無視しました。自分たちには強固な城壁があるから大丈夫と考えて、イスラエルを導くお方に目を向ける人はまれでした。ある人は、ちょうどパウロからイエス様の事を聞いたアテネの人が「そのことは、また今度聞く事にしよう」と言ったように、神様について考えることを先延ばしにしました。またある人は、ただただ恐れているだけだったかもしれません。とにかく、みんなユダヤの民を導くお方に目を据えて、「この神こそが唯一の真の神だ」と告白することはなかったのです。ただ、ラハブだけは、この神を信じました。でも、信じるということは行為を伴って本物になるのではないでしょうか。目の前に困窮している人がいるとして、何か出来ることがあるならするべきだ、助けの手を差し出すべきだ、それが人の道だと信じていても、実行する事には妨げが伴うものです。損得を考えてしまうのです。でも、その妨げにも関わらず助けの手を差し伸べて初めて、その人は助けるべきだという思いを実体あるものとしたのです。信仰も同じです。ラハブは純粋な人だから本当にはそんなことは考えなかったかもしれませんが、今、カナンの様子を調べに来たユダヤ人が自分の所にいる事を知らせれば王様にほめられ、社会的に回復される、名誉を与えられて娼婦である事から抜け出すことが出来る。そんなチャンスでもあったわけです。そうすることを選ぶ方がいいのではないかと、わたしのようなものだったら心に思い浮かべるかもしれません。また、スパイをかくまう事は危険な事です。今でも同じでしょうが、それは国を売ることになるわけですから人々の憎しみを買い、非国民呼ばわりされ、当時だったら自分だけでなく一族諸共処刑されるかもしれないのです。また、ラハブは自分が娼婦であることに囚われて、自分のようなものは真の神様に、聖なる神様に受け入れられるわけがないと考えるかもしれません。このような事が形を変えてではありましょうが心の中に思い浮かび、葛藤するのは神と出会う時に誰もが、いつの時代でもあっても同じことだと思います。しかし、ラハブは一歩を踏み出してユダヤの民を導く神に賭けることにしたのです。この方こそが本当の神であると告白したのです。ヨシュア記の2章11節でラハブは、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と言っています。エリコを探りに来たユダヤ人を探す官憲が来た時、彼女は彼らをかくまい、城壁にあった自分の部屋からロープでつり下ろし、逃がしました。そのユダヤ人は、部屋の窓から真っ赤な紐を結んでたらしておくようにと言いました。ユダヤの人たちがエリコを攻める時、その紐を見て、そこはラハブがいるところだからということで救いだすからと約束したのでした。そして、その約束は守られて、彼女は命を救われました。しかし、物語は、そこで終わりません。ラハブは、イエス・キリストがお生まれになるよりもはるか昔に生きた人ですが、再び新約聖書に名前が現れます。それはマタイの福音書1章です。そこには、イエス様の家系が記されています。5節と6節に、こうあります。「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」。彼女は、後にユダヤ人サルモンと結婚したのですね。そして、彼女の玄孫がダビデなのです。やがて彼女の家系から神の子イエスが生まれます。つまり、イエス様にはラハブの血が流れているのです。この家系図はアブラハムから始まっています。神様に祝福の基とされたアブラハムです。祝福の基となる事が、つまり、すべての人の救い主を生みだすことが約束された家系です。神様は、ラハブの信仰を心から喜ばれて祝福の基の家系に加えられたのです。娼婦になってしまい、日本では苦界と言ったそうですが苦しみの中に身を沈める他ないようなところにいた彼女ですが信仰によって立ち直った、いや、神様が立ち直らせて下さったのです。人生、いつからでも立ち直ることが出来る。それだけでなく祝福で満たして下さる神様だということをラハブの人生は証ししています。最後に、ある女性の証しをご紹介したいと思います。わたしも妻もお世話になっていた米沢興譲教会のメンバーの方で、東京におられたころには私が国立で行っていた家庭集会に来られたこともある方です。「生まれ変わった私」という彼女の証しを読ませて頂きます。「なんとなく生きづらく、人間関係を自ら壊してしまう性格に苦しみ、自分自身を嫌い、気がつけば一人ぼっちの私でした。そんな私が三宅島に嫁ぎ、老人ホームに勤めることになりました。嫁いでからはうつ状態に陥りました。そのような中で、東京に行った際、書店でT先生の『そのままのあなたが素晴らしい』という本を見つけ、通信講座でトータル・カウンセリング・スクールを学び始めました。三宅島大噴火により東京で避難生活をはじめ、セミナーや公開カウンセリングで内なる自分を見つめ直す機会が得られました。カウンセリングを受けると、生きづらさから一気に解放されるかというと、そうではありませんでした。過去の自分と向き合うと重苦しい気分にさいなまれ、心の中に葛藤が起きました。時には後ろにも前にも行くことが出来ず、ただ黙って座っていることもあり、やがて怒りがこみあげてスタッフにその感情をぶつけました。ある日、スタッフに話をしている際、様々な事を思い出しました。わたしが小さいときから親の財布から小銭を盗んだり、お店からお菓子を盗んでいたことです。大人になっても盗癖は続き、デパートを二、三軒はしごして洋服や小物を盗んだこともありました。警察の取り調べを受け、『何でやったのか』と理由を聞かれても答えられず、うすら笑いを浮かべたことが余計に反感を買いました。また、年頃の私は同年代ではなく年の離れた父親のような人ばかりに思いを寄せ、男性遍歴を繰り返した結果、離婚をしました。今なら、それが父親捜し、愛情不足故の孤独、淋しさ、不安、怒りなどの満たされない思いを埋め合わせるための行為だったのだということが分かります。本当にわたしは病んでいたのだなと思わされました。それからしばらくして、米沢に行った際、前述の事をすべてT先生に話しました。すると、先生から『言えて良かったじゃないか』『それでいいんだよ』との言葉。何がいいのか分からないわたしは、「今、ケアマネージャーをしているわたしが過去にそんな事をしていたなんて人が知ったら何と思われるでしょうか」と言いました。T先生は、一言、「その話を一般の人にも話しなさい。人は皆、心の中に隠し事を持っているんだ。あなたがその話をすれば聞いた人は癒されるんだ」と言われるではありませんか。『そんなことあるのかしら』と思いつつも、その日には何か私の心のうちに変化が起きていました。わたしの心の中の覆いがはがれたようで、すっきりと軽くなったのです。」(リレーション 第84号より 転載許可済)この文書では彼女の信仰については触れられていませんが、わたしは、個人的に彼女が信仰を持ち、神様に立ちなおらせて頂いたことを知っています。失礼ですが、すごく若い方というわけではありません。でも教会に導かれ、神様を信じて立ち直らせて頂いた方です。それだけでなく、今は教会のスタッフとして喜んで神様に用いて頂いています。人生、いつでもやり直せる。誰でもやり直せる。神様は、そのように語りかけています。

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