人生を支える三つの言葉がけ ヘブライ 13:6

今日は、ヘブライ人への手紙6節を読みました。自分にどういう言葉がけをするかは大切な事です。自分への言葉がけが自分を支え、育て、ひいてはその人の人生の彩りを決めることにもなります。否定的な言葉をかける人は否定的な人生を歩みがちであり、肯定的な言葉をかける人は肯定的な人生を歩むことになります。また、自分にかける言葉がけが人への言葉がけを決定します。自分に否定的な言葉をかける人は人にも否定的な言葉をかけ、肯定的な言葉をかける人は肯定的な言葉をかける事になります。否定的な言葉をかける人は自分とうまくいかないし、また人ともうまくいかない事になりがちです。肯定的な言葉をかける人は自分を受け入れやすく、人も受け入れやすくなります。でも、その言葉は真実でなければなりません。本屋さんに行きますと、「積極的思考の力」といったタイトルの本をたやすく見つける事が出来ます。読んでみますと、「自分には出来る」、とか、「集中して望めばそれは実現する」とか。でも、真理の言葉なのかどうなのか根拠がありません。わたしたちは、聖書の言葉は聖書自身がそう言っているとおり、そして歴史を通じて証しされてきたとおりに真理の言葉、本当の言葉だと知っています。その言葉に聞くべきです。それでは、聖書は、聖書を通して神様はあなたについて何と言っているだろうか。ヘブライ人への手紙13章6節に誰もが聞くべき、だれもが自分に語るべき、だれにも当てはまる三つの言葉がけが語られています。第一は、「主はわたしの助け手」という事です。神様に関する真理の言葉です。神は、という言葉を主語にしていろいろな文章が考えられます。神は恐ろしい。なるほど、しめ縄は恐ろしい神が暴れないようにしめる縄だそうです。神は、無関心だ。あるいは、神は意地悪だ。神は、もっぱら裁く事に関心を持っている。まだまだありそうです。しかし、神様ご自身は、「わたしはあなたの助け手だ」と言っています。しかも、「はばからずに」そう言う事が出来ると書かれています。ヨハネによる福音書14章16節によるとイエス御自身が十字架にかかられる直前、世に残される事になる弟子たちに、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」と語られました。口語訳では弁護者を助け主と訳しています。この時イエス様は何を伝えられたのか。助け主なる神様は永遠に、つまりどのような時にも決してあなたを一人にしない、共にいて下さると伝えたのです。イエスが去ってしまうと聞いて不安でいっぱいになっている弟子たちにそう言ったのです。そして、ヨハネの14章26節と27節を読むと、この助け主は聖霊なる神様であり、ここぞという時に神の言葉を思い出させて下さるとあります。この思い出すというのは、力ある言葉です。ただ頭に思い浮かぶとか、記憶がよみがえるという事ではない。力を持った言葉、その場であなたを支え、進ませて下さる力として、あるいは、その状況を良しとして受け入れる力として、エフェソの信徒への手紙1章19節によるならば「信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」、キリストを死者の中から復活させた力として思い出した御言葉が現実化するという約束です。だからこそ、主は助け主が遣わされることの後に平和、世が与えるようなものではない平和について語っているのです。何度か話したかもしれませんが、わたしは伝道の現場を変える時、大いに迷います。本当に神様の御心だろうかと思います。そんな時、いつもヨシュア記3章に伝えられる、イスラエル人が約束の地に入る時にヨルダン川の水に祭司が足を踏み入れた時に道が開けた、という事を思い出します。まさに、思い出されるのです。力ある言葉として。そして、勇気百倍。もう、迷うことなく新しい現場に行きます。主は、あなたの助け主なのです。行く手を開き、導くだけでなく、困った時の助け主、気が弱くなっている時の助け主、病の中での助け主…。あなたは、「主はわたしの助け手」と宣言するのです。第二の言葉がけ。「わたしは恐れない」。この世には、恐れさせるようなものがあちこちに散らばっています。貧困、あるいは、予想以上にお金が出て行ってしまう事、病、人間関係の不調、仕事がうまくいかない、あるいは見つからない…。そんな時、「わたしは恐れない」などというのはほとんど滑稽です。普通なら。しかし、実は、あなたはそのように宣言する事が出来るのです。なぜ。既に私たちは聴きました。主があなたの助け手だからです。主があなたの助け手であるという事は、恐れを取り除きます。でも、ここには戦いがあります。恐れる、恐れない。その緊張があります。だから、聖書を読むと何度も恐れるな。雄々しくあれ。繰り返されています。出エジプト記14章13節では、モーセが「恐れてはならない。落ち着いて今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と言いました。前には海、後ろにはエジプト軍。絶体絶命の時です。「恐れるな」は、まさに滑稽な、この時にふさわしくない言葉です。しかし、このような状況でこそ主は助け手であることをわたしたちは見るのです。ヨシュア記1章9節では、指導者ヨシュアに神様は、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とおっしゃいました。イエス様も、ヨハネによる福音書16章33節で、「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と私たちを励まします。第三の言葉は回りのいろいろな出来事に関する言葉です。「人は私に何が出来るだろう」。茨城県で牧師をしていた時、沖縄県から派遣されていた農業技師の比嘉さんという方が私たちの教会に来ておられました。彼は、ある時こんな話をしてくれました。読谷村という彼の村。一つの教会があります。長い間願っていた教会堂の建築。ようやく実現に至りました。そして献堂式を迎え、新しい建物での礼拝が始まりました。しかし、何かのミスで建築許可通りでない所があり、建物が1センチほど予定よりはみ出している部分があったそうです。それをどこかで知った、イエスの教えを良く思わない人が大きな問題として取り上げて役所に許可を取り消すように、つまり建てた建物を取り壊すように迫ったそうです。そのような事が普通なのかどうか分かりませんが、役所の建築課はその程度なら目をつぶろうということのようだったのですが、声高に抗議をしました。明らかに教会を困らせるためだったそうです。教会の人たちは、何とか建物が使えるように必死に祈りました。すると、その抗議をしていた人の会社がうまくいかなくなり、その人は夜逃げをするようにいなくなってしまったのだそうです。もう一人の人は、病気になってそのような活動をする事が出来なくなってしまいました。
比嘉さんは、「神様は弱い者いじめをする人をお赦しになりませんでした」と言っていました。「人は私に何が出来るだろう」。神様に信頼し、また神様の御心に沿って歩むなら困難は問題ではありません。その問題は、わたしが扱うべきものではなく、神様が扱って下さるものだからです。そして、神様はその事を通してご自身の栄光を表します。わたしたちは、ややもすると弱気で否定的、後ろ向きで暗い言葉を語りがちです。神様から目を離し、また、神様から離れるなら必ずそのようになります。気分の問題ではありません。宣言の問題です。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人は私に何が出来るだろう」。この言葉を語りましょう。時が良くても悪くても語りましょう。真理の言葉は時が良くても悪くても真理だからです。

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