人生収穫の原則(2) マタイ 13:1-9,18-23

前回に引き続き、マタイによる福音書13章から神様に聴きたいと思います。前回は、神様の言葉をどのように受け止めるのかということでお話しをいたしました。救いのメッセージを中心にお話ししました。その言葉は、あなたが救われると同時に止まってしまうのではありません。神様は語り続けられます。聖書を通して語り続けられます。しかし、神様は聖書を通してのみお語りになっているのではないのです。自然を通しても語っておられます。歴史を通しても語っておられます。そして、あなたに直接、具体的に語られておられます。フィリピの信徒への手紙2章13節には、このように書かれています。「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」あなた方というのが、教会全体を指しているのか、それともフィリピの町の教会に集う一人一人、を指しているのか、どちらにも読むことができます。そして、どちらにも語り掛けられているのだと思います。前回は、人の救い、霊的な誕生という観点からマタイに聴きましたが、今回は神の計画の実現という観点から読み解きたいと思います。「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」と聴きました。わたしたちの内、つまり心、意思をつかさどる部分に神は働きかけられます。神様は、わたしたちに思いを与えられます。ビジョンを与えられます。望みをお与えになります。望みと言っても、神様が与えられる望みです。自分本位にあれを慕い、これを慕い、あれが欲しい、これが欲しいという望みではありません。この事に関してヤコブの手紙4章13-16節にこのように書かれています。「よく聞きなさい『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』という人たち、あなた方には自分の命がどのようになるか、明日のことは分からないのです。あなた方は、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなた方は、『主の御心であれば、生きながらえて、あの事やこの事をしよう』と言うべきです。」ポイントは何か。主の御心を求める、主のご計画を求めるということです。主の導きに委ねるということです。さて、このような視点からマタイ13章のたとえ話を読んでいきましょう。農家の人が蒔いた種、色々なところに落ちたのでした。道端、石だらけで土の少ないところ、茨の間、そしてよい土地でしたね。種は御言葉、地は人の心でした。前回、種を神様の救いへの招きの言葉、福音として読みました。しかし、神様の言葉は、救いのことばだけではありません。イエスを信じて、イエスと共に歩む新しい人生を始めた人にも神は語りかけます。大転換の言葉です。生き方を変える言葉です。神様と無関係に生きていた時は自分の考えや人(親など)の思いによって仕事を決め、ライフスタイルを決めました。自分が真ん中にいて決めていました。しかし、今や人生のパートナーがいます。結婚相手もパートナーと言いますが、それ以上のパートナー、神様があなたの、あるいはあなたと連れ合いのパートナーです。詩編139編16節に「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日もつくられないうちから」とあるように、人の命はこの世に誕生したときに始まるのではありません。神様が母体にあなたを宿らせた時に始まっています。そして、「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」とあります。運命が決まっているということではありません。神様は、素晴らしい計画をもってあなたを造り、世に送り出されたのだということです。しかし、ほとんどの場合、わたしたちはこの事を知らずに育ちます。実は、その計画は一つです。どんな計画かと申しますと、あなたが主の導きに従い、主と共に歩み、主の恵みを、力を、知恵を目の当たりにして感動し、驚き、主を賛美し、そのことを人々に伝えるということです。どんな学びをするのか、どんな仕事をするのか、社会で働くのか家庭で働くのか、そのようなことは、大切なことかもしれないけれども第一のことではない。「おかれた場所で咲きなさい」という渡辺和子さんの著書がありましたが、あなたの仕事や家庭、さらに状況は置かれた場所なのです。そして、どこに置かれているのかということよりも、そこで咲くということ、つまり神様と共に歩むことが大切なのです。このメッセージをどう受けるでしょうか。種と土地のたとえ話に戻りましょう。あなたの心は道端ですか。聞き流しますか。無視しますか。それとも石だらけで土の少ない土地でしょうか。喜んで受け入れるけれども根がないのでしばらくは続いても患難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人でしたね。石だらけ、つまり自分の思い、考え、こうしたいという頑固な欲望が邪魔をして神様と共に歩むのを、神様に思いや考え、生き方を明け渡すのを拒むのでしょうか。茨の生えた土地ですか。確かに神様と歩みたい。でも、思い煩いや富の誘惑に負けてしまいますか。イエス様を信じて罪を赦され、そればかりでなく神の子として頂きました。次に「あなたはどう歩むのか、誰と歩むのか。わたしに委ねてみないか」とチャレンジを受けるのでしたね。そして、先週申しましたように、これらの土地は生まれながらの定めではなく、どのような土地、どのような心でイエスを受け入れるかのチャレンジがなされているのだと申しました。今日、まず神の国と神の義を第一とすること、まず神様に聴き、その示しと導きを受け入れる決心をしましょう。教会も同じです。教会に夢がある。ビジョンがある。それは、神様の栄光を現すためのものですか。それとも、わたしたちの思い、もっと言えば欲ですか。たくさんの人に来てもらいたい、大勢の人が救われてほしい。それは、神様のためですか。それとも大きな教会だとどこか自慢したい思いがあってのことですか。教会の建物が欲しい、墓地が欲しい。なぜですか。立派な建物ですねと見られたいからですか。クリスチャン人口の少ない日本。そして、必ずしも裕福な人がたくさんいるわけではない私たちの教会。でも、よりたくさんの人と神様を礼拝したい。より多くの人にイエス様の救いを知ってほしい。そのために、広いスペースが欲しい。自由に仕える空間が欲しい。天に召されてもキリスト教の墓地に葬られることも一つの証しでしょう。そのような視点で求めていますか。わたしたちは、「はい」と答えることができることを幸いだと思います。一人一人自分の人生を、また教会を神様に捧げましょう。御言葉を聴くとき、神様の導きがある時、耳をふさがず、硬い心で拒否せず、思い煩いに押しつぶされずに、その言葉に聴き従いましょう。神様を主としましょう。そこに、人生成功の秘訣もあるのです。

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