信仰の弱い人を受け入れなさい ローマ 14:1-4

今日のテキストは、「信仰の弱い人を受け入れなさい」とはじまります。皆さんは、ご自分のことを信仰の強い人だと思っていますか。それとも弱い人だと思っていますか。たぶん、全員が弱い人だと思っているのではないかと思います。また、強いと思う方がいたら、ちょっと怖いなと思います。この聖書の個所から、まず最初に聴きたいことは、神様は私たちの弱さを分かってくださる方だということです。ヘブライ人への手紙4章15節は、イエス様を大祭司と呼んでこう言っています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」私たちの弱さを知って、分かってくださる方が私たちの主イエス・キリストです。なんと慰めに満ちたことでしょうか。聖書を読みますと信仰の弱い人に満ちています。旧約聖書から一人だけあげましょう。エリヤは、人々の前に主だけが本当の神様であり、バール教の神は神でないことをはっきりと示しました。いわば大勝利です。しかし、そのあとバール教保護者である王妃を恐れて地の果てまでも逃げて行きました。ペテロは、イエスを信じて水の上を歩くという奇跡にあずかりましたが強い風に気づいて怖くなり沈みかけて助けを求めました。その時イエスに「信仰の薄いものよ」といわれています。死んでも付いて行くと言っていたのに三度イエスを知らないと否定したのもペテロでした。ペテロやヨハネ、その他の人たちに聞いたら、きっと自分は信仰の弱いものだということでしょう。さて、今日のテキストに戻りますが、ここで信仰の弱い人とは、今あげたような意味で、つまりすべての人に当てはまる意味で信仰が弱いということではありません。なぜなら、この人たちを受け入れなさいと言われている人が前提されているからです。それでは、ここで言われている「信仰の弱い人」とは、どのような人の事でしょうか。その答えのヒントは2節3節、5節6節にあります。ある人は、キリスト者なら肉を食べないで野菜だけ食べるのが良いと言います。21節を見るとお酒も飲まないようにということだったでしょう。また、ある人は、キリスト者ならこの日は特別とするべきだと言います。今の私たちの時代では菜食主義だろうが肉も食べようがどちらでも良いということになりますが、当時は、それなりの意味があったのでしょう。菜食主義の可否はどちらでも良いですが、要するに特定の生活習慣、生活の在り方が信仰生活を支えるという考えにこだわり、捉えられている人を信仰の弱い人と言っているのです。菜食主義はどうでもいいがと申しましたけれど、お酒だともう少し身近かもしれません。クリスチャンは禁酒禁煙と声高に主張する人がいます。実は、私もそのような一人でした。禁酒禁煙がいいとか悪いとかではないのです。そこに信仰生活が懸かってしまっている。信仰生活が、そのような何をするとかしないとか、食べるとか食べないとか、飲むとか飲まないとか、そこにかかっているならば、それは信仰の弱さなのです。その人は、必ず自分と違う人を批判し始めます。裁き始めます。キリスト者なのにあんなことをしていると言い始めます。そこから始まって、それを許す牧師や教会を批判し始めます。この教会は熱心でない、キリストに従っていないと言い始めます。そして、自分が転ぶのです。3節に肉を食べる人も食べない人もお互いに軽蔑してはならないとあります。この、軽蔑と訳されている言葉はもっと強い言葉です。存在を認めないという意味です。あんなことする人はキリスト者と認めない。そういう意味です。そのようなことをしてはいけないとパウロは諫めます。1節に「その考えを批判してはなりません」とあります。この批判という言葉は4節で裁くと言い換えられています。箴言27章5-6節には、「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」とあります。道徳的なことや、明らかに聖書の説くところ(教理)と違うときにはそれを指摘する必要があるでしょう。プリスキラとアキラはヨハネのバプテスマしか知らなかったアポロを招いて、もっと正確に福音を説明したとあります。そして、アカイア州に行きたいというアポロのために紹介状を書いてあげました。しかし、飲み食いのようなことについて裁いてはならない。日曜日しか教会に来られない人について裁いてはならない。毎週主日を守れない事情のある人について裁いてはならない。現代の、いろいろなことに思いが広がる言葉です。そして、パウロを通して神様は、人の事ではなく、自分のことにかかわれと言います。そもそも、あなたと違う信仰生活のスタイルを持つ人はよその家の人ではないか。他人の僕ではないか。(ここで、他人とは神様のことです。)そして、その主人は熱心な方なのだ。彼を立たせることが出来るのだ。神様の愛は、とこまでも見捨てることのない執着する愛なのだ。それが3節4節の意味することです。執着する愛とは、普通には良くないこととされるかもしれません。学生時代、東京仏教青年会に入っていました。夏休みには、教会に夏のキャンプがあるようにお寺でもあったのです。その年のテーマは、渇愛でした。渇くがごとき愛です。執念深い愛です。あきらめない愛です。悪い意味で用いられる言葉でした。でも、勿論悪くない意味でですが、神様は執念深く私たちを愛してくれています。私たちみんな信仰の弱いもの。でも、神様はあきらめなさらない。必ず立たせてくださる。そういう神様です。そんな神様の守りの中で、私たちは人を裁くのではなく、「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきです」と5節にあります。23節には、「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます」とあります。私たちの信仰生活上の行動について、これはどうかなと思うのでしたらやらないほうがいい。コリントの信徒への手紙一10章31節に、「あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を表すためにしなさい」とあります。基準は明らかです。神の栄光のために。1日24時間、1年365日、いつもこの基準に基づいて生活していますと言える人はいないでしょう。でも、神様は、そのような私たちをご自分のものとして下った。もう、主のものとされてしまった。だから、不完全ではありますが、その私を包み込む神様の恵みの中で「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を表すために」したいものです。

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