分かち合う喜び ローマ 15:25-29

ローマの信徒への手紙15章25節から29節を読みました。パウロは、イスパニアに行く計画があるけれども今はエルサレムに行くと言います。マケドニア州とアカイア州のクリスチャンたちが経済的な援助を必要としているエルサレムのキリスト者のために献金を募った。その献金を届けに行くためです。パウロは、彼らが喜んで、心から献金をささげた事を喜んでいます。私たちも海外・国内の宣教のためにだけでなく、被災地のために献金をしたり、子ども食堂やホームレスの方々、海外の子どもたちが学べるように、また衛生的に暮らせるようになどの献金をささげています。今日のみ言葉は、どんな思いでささげているのかを問いかけています。わたしたちは、どんな思いをもってささげているだろうか。心から、喜んでささげているだろうか。優越感のかけらは混じりこんでいないだろうか。そんな事を問いかけていると思うのです。ささげることに関するみ言葉をいくつか見てみたいと思います。最初にコリントの信徒への手紙二 9章6節と7節です。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」このみ言葉だけでもたっぷりと時間を使って聴き取るべき多くのことが語られています。まず、ささげることが農業にたとえられていることに気づきます。農民が惜しまずに種を蒔くことは当たり前ではないか。種をケチして1,000坪の土地に10粒しか蒔かないなどありえないではないか。できる限り多く蒔くではないか。そのようにしなさい。それが当然のことだからということを聴きます。そして、たくさん蒔けば当然収穫も多い。少なくまけば少ない。信仰によって神様に、また、必要とする人や団体などに捧げる場合も同じ原理が働くのだというのです。これには信仰が必要です。私たちは、与えてしまえば、ささげてしまえばそれだけ減ると考えます。常識による計算なら当然そうなるでしょう。しかし、神様はあなたがささげるのをちゃんと見てくださっている。そして、それに喜んで報いてくださるという約束です。また、不承不承でもなく、強制されてでもなく、とあります。不承不承ささげるのは、自分の内側から強制されてということでしょう。皆がささげているのに自分だけしないのはカッコ悪いから、ケチだと思われるから。ささげないと、罰が当たるかもしれないから。そんな思いからささげるのは不承不承でしょう。また、外からの強制によってささげられてもなりません。教会でも、捧げものはすべて強制されません。今日、この礼拝でも献金の時がありますが、いろいろな事情で今はささげることが困難な方がおられるかもしれませんし、キリスト者ではないので献金はする必要ないのでは、という方もおられるかもしれません。わたしたちの教会では、そのような人が心苦しく感じたり、それこそ不承不承献金をすることがないように献金の袋に“ご準備のない方は、中に何も入れないでそのままお出しくださるように“と書かせていただいています。次に、心に決めた通りに捧げるようにと聖書は語ります。強制されてとか、割り当てられてではなく自分で決めるのです。どれだけ捧げたらいいだろうかと思われる人は祈ってください。そして、私の経験からのヒントをさせて頂くならば、ちょっとだけ背伸びをするといいようです。1,000円と思うなら1,050円、という具合にです。豊かに蒔くとは、ちょっとだけ大変と思うだけ蒔くということのようです。そして、豊かに蒔くときに豊かに刈り取るという約束でした。もう40年ほど前、キリスト者になりたての頃、ある方が「今月はちょっと大変だから少しいつもより多く献金しよう」といわれるのを聴いて不思議に思いました。でも、その方は、豊かに蒔くものを神様は見ておられることを知っていたのですね。わたしもささげたいと思ってささげたために米櫃が空になったなどということは一度も経験したことがありません。み言葉をもう一つ。エフェソの信徒への手紙4章28節です。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」一生懸命働いて収入を得る。自分で働いたのだから自分のもの。自分だけで使うものだというのは、神様の前に考え違いをしていることだと教えます。神様が健康を与え、仕事を与え、収入を与えてくださったのだ。だから、神様に感謝をもってそれを受け取り、健康上の理由や災害その他の理由などによって困窮している人に手を差し伸べなさい。ささげなさい、分かち合いなさい、助け合いなさい、ということです。昔、ある先生に聞いたことがあります。先生は、牧師家庭に育ちました。時は終戦直後です。食べる者のない人がたくさんいた時代なのでしょう。先生の家庭でもようやく手に入れたわずかの食べ物です。皆で分け合っていただこうというときに、一人の人がふらふらしながらやってきて戸をたたき、何でもいいので何か食べ物があったら少しだけいただけないかといったそうです。お母さんは、「食べるの止め。神様がこの人を送ってこられました。一緒に食べましょう」といったそうです。子どもであった先生は、その時、自分の分が減ってしまうと思ったと正直におっしゃっていましたが、後になって、お母さんは神様の思いを実行されたのだとつくづく思ったとおっしゃっていました。さらに、ある聖書の解説者は、今読んだエフェソ書の御言葉はこんなことを言っていると書いています。エフェソの教会に、キリスト者になる前、盗みをしている人がいた。その人がクリスチャンになって、もう盗むことはもちろんしない。働いて、正当な収入を得る。でも、そこで止まってはならない。自分だけで使うのでなく、必要な人に分け与えなさい。そうしないならば、つまり、自分の収入は自分だけのものというならば、それは盗んでいるのと同じことなのだ。そう解説していました。誰から盗んでいるのだろう。神様からです。すべてのものは、神様による。自分の命もそうですけれども、持ち物もすべて神様の恵みによって与えられたもの、また神様の恵みによって自ら得たものです。ですから、それは自分の知恵と実力で稼いだのだから自分だけのものだと主張するならば、それは神様から盗んだことになるではないかと、この聖句は語りかけているというのです。なるほど、私たちは、教えてもらって、経験をさせてもらって、健康も備えられて今日があります。だから、神様の恵みのもとで今日があるというのは正しいことではないでしょうか。分かち合うことは喜びです。神様とともに喜ぶことのできる喜びであり、また自分の中で、いわば自分とともに喜ぶことのできる喜びです。そして、分かち合うことによって、すべてを、ご自分そのものを私たちに与えてくださったイエス・キリストを想起することができるのです。

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