初めのささやかな日をさげすんではならない ゼカリヤ 4:1-10

ダビデ、そしてソロモン王の時代に隆盛を極めたイスラエル王国でしたが、その後、国は南北に分裂し、最初に北王国が滅び、そして、紀元前586年にはバビロニア帝国によって南王国が滅ぼされてしまいました。これがバビロン捕囚といわれる出来事です。捕囚の前に活躍した預言者にイザヤがいます。王国が滅ぼされることと同時にキュロスという王様によって解放される事を預言します。その預言通り、紀元前539年、キュロスによってバビロニアは滅ぼされます。エズラ記1章1節から4節には、次のように書かれています。「ペルシアの王キュロスの第一年ことである。主はかつてエレミヤの口によって約束された事を成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。『ペルシアの王キュロスはこういう。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムにご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属するものは誰でも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいて下さるように。すべての残りのものには、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の捧げものを持たせるようにせよ』」つまり、彼はユダヤ人に神殿再建を命じます。彼らは夢を見ているようだったでしょう。確かに、神様はバビロンによる捕囚とキュロスによる解放を約束していましたが、それが実現したのです。神殿再建の事情はエズラ記に、そして城壁債権の事情はネヘミヤ記にに詳しいのですが、工事は一気に、スムーズに進んだわけではありませんでした。工事が始まると、その地の住民がユダヤ人たちの士気を鈍らせ、脅かし、役人を買収して建築計画を挫折させようとしたとエズラ記4章に伝えられています。そんな中で、預言者ハガイとゼカリヤが立ち上がり、指導者ゼルバベルとヨシュアを激励します。今日の聖書個所は、そのようなことを背景としています。ようやく捕囚から解放され、無力なユダヤ人がはじめた神殿再建でした。それは、まさにささやかな始まりでした。しかし、そのささやかな始まりをさげすんではならない。いろいろな妨害や困難があるに違いないが、その中で意気消沈してはならない。やがて、小さな、ささやかな水の流れが大河となり、海にそそぎこむように、そして、その間には滝があり、急流があるが確実に海に注ぐように、困難はあるだろうが必ずなるのだからという励ましの言葉です。思ってみれば、皆さんも同じだと思いますが、今ある私を造っているものもささやかな始まりに端を発するものです。なぜ、私が今牧師として立たせて頂いているのか。それは、旅でクリスチャンのカップルに出会い、食前にお祈りをしているのを見たことに始まります。「キリスト教徒なのですか」とわたしが一言聞いたことから始まっているのです。今、ここにわたしたちが教会としてあるのもささやかなことから始まっています。一人の方のお住まいのそばにバプテスト教会があればとの願いと祈りが始まりです。その方とわたしが出会ってビジョンを分かち合ったのが始まりです。四人の人が、礼拝を始めたのが始まりです。決して、大勢の人が教会を願い、建物があって、人の目にも前途洋洋と見える中で始まったのではありません。しかし、今、その時に比べれば信じられないようです。バプテスマ槽を与えられ、可能な範囲ではありますがバリアフリーの工夫がなされ、そして新しいお仲間を加えて礼拝を守っています。小さな湧水が、小川くらいにはなりつつあるところでしょうか。神様のなさるすべての事は、ささやかな日に始まるようです。教会の出来事しかり、わたしたち一人一人の人生の中で起きる神様の事柄すべてもそうなのです。だからさげすんではならない。ささやかかもしれない。でも、さげすんではならない。そこに幻を見なさい、ビジョンを持ちなさいという事なのです。それでは、なぜそのような事が言えるのでしょうか。千里の道も一歩からということわざがあります。老子の言葉だそうです。それは、どんなに大きな事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていけば成功するという教えだそうです。どんなことも始めは小さな、頼りなげな始まりだ。しかし、努力を続けなさい、コツコツと積み上げていきなさい、そうすればいつか成功するという事でしょうか。つまり、千里の道を行くかどうかは、あくまで私たち人間の努力という事のようです。もちろん努力は大切です。でも、今日のゼカリヤを通して語られた神様の御言葉はそれ以上の事を語っています。なぜ、ささやかな日をさげすんではならないのか。6節に「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」とあります。口語訳聖書では、「権勢によらず、能力によらず、私の霊によるのである」と訳しています。権勢とは、権力を握って他を抑え、従わせる力や勢い、と辞書にありました。事がなるのは人の上に立ち、従わせ、コマのように動かす、そのような力を持っていることによるのではないと言います。また、能力によるのですらもない。これは、能力は要らないと言っているのではありません。人の能力だけではないという意味です。すると運とか、つきとか、そういうものも必要だよと言っているのでしょうか。そうではなく、神の霊によると言っているではありませんか。新共同訳では、「ただ、わが霊によって」とまで言っています。神様は、私たちに与えた賜物を用います。でも、極端に言えば、たとえ賜物がたとえないとしても、もしも神様が望むならば事はなる。つまり、主役はあくまで神様なのだという事を伝えているのです。9節に、「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたたちに遣わされた事を知るようになる」とあります。ゼルバベルは与えられた賜物、能力を用いてリーダーとなって神殿を建てる。確かにその通りだ。しかし、その背後に神がおられること。神様が主役であることを知らなければならないし、人々はその事を知るようになる、と神ご自身が語っておられるのです。フィリピの信徒への手紙1章6節には、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、私は確信しています」とあります。わたしたちの救い、信仰の成長もささやかな始まりだったでしょう。いつまでたってもからし種の粒ほどの信仰だと思っているかもしれません。しかし、からし種の粒ほどの信仰で十分。主が、その業を完成させて下さる。フィリピの信徒への手紙2章13節、14節、口語訳には、「神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるのです。すべての事を、つぶやかず、疑わずにおこないなさい」とあります。新共同訳では「疑わずに」を「理屈を言わずに」と訳しています。わたしたちは、理屈を言いやすい者なのです。ささやかすぎる、小さすぎる、また、こんな小さな始まりが大きな実を結ぶはずがないと理屈をこねがちなのです。わたしたちの理屈に説得されず、主を見上げて夢を見続け、導きを求め、必要の満たしを求めてお一人お一人人生を歩み、また教会を建て上げてまいりましょう。

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