勇気をもってイエスに近づけ マタイ 8:1-3

ここに驚くべき二人がいます。一人はイエスであり、もう一人は重い皮膚病を患った人です。イエスは、もしかしたらこの人がメシア、救い主ではないかと人々が思い、そのようなことに関心がない人、つまり、神とか救いとか、霊的なことに関心がないでも病の人、体の不自由な人が癒されるのを見てヒーローのように思う人がいました。一方、重い皮膚病を患った人。ただ病気というだけでなく、この病気は当時のユダヤ人の社会の中で忌み嫌われる病であり、人々から、親戚からさえ仲間外れにされる、そんな病気だったのです。今日は、この二人の出来事のお話です。先に申し上げましたように、彼の病気は風邪を引いたとか、あるいはもっと深刻な病気でもいいのですが、それらの他の病気とは違う意味付けがあるのです。他の病気はお医者さんが診断するでしょう。しかし、この病気は祭司によって診断といいますか、確定されるのです。そして、重い皮膚病であるとされると衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆って、外を歩くときには「私は汚れたものです。汚れたものです」と叫び続けなければならないのです。人々が、彼の汚れに触れないためです。また夜も宿営の外に住まなければなりません。三重の苦しみを負うのです。第一には病そのものの苦しみです。それに加えて、二番目には社会的な苦しみ、イスラエル共同体から排除されるという苦しみです。みんなと一緒働いたり、おしゃべりしたりショッピングをしたりすることもできません。そして三番目には人格的な苦しみです。誰が「私は汚れている」と言いながら歩きたいでしょうか。できれば家の中にこもっていたい。でも、水を汲みに行ったり、食べるために物乞いもしなくてはならない。だから「汚れている」と自分の人格を否定しながら歩き、生活しなければならないのです。そして、いつしか人々は重い皮膚病の人を神の前に特別に罪深い者、神に呪われ、裁かれた人として見下し、また恐れるようになったのでした。この人は何歳ごろに病を患ったのでしょうか。そもそも、いま何歳なのでしょうか。聖書は何も伝えていませんが、何年も先ほど申しました三重の苦しみの中で生きてきたのだと思います。長い間仲間外れにされ、軽蔑と恐怖のまなざしにさらされて、ある時には「あっちに行け」と石を投げられてきたことでしょう。そして何よりも、そのような毎日の中で回復の見込みのない絶望の中で生きてきたのだと思います。夜寝るときには、もう明日が来ないようにと願い、目覚めるときにはまた呪いの一日が来たと呻き、死を願い、どうして死ねないのだろうと、ここでも絶望を味わったかもしれません。しかし、彼も律法と預言者、つまり旧約聖書に書かれていることを学んだ人でありました。律法は彼にとって恐ろしいものでした。彼の病について書かれているのですから。でも、同時に律法は、旧約聖書は希望でもあったのです。なぜならばメシアが来られることが伝えられていたからです。彼はイザヤ書53章4節を何度も聞き、暗記し、心の中に温め続けていたでしょう。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・」。そう、救い主、メシアは彼の病を担い、痛みを負ってくださる。そればかりではない、イザヤ書を読み進めると、5節、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは 私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」。11節には、「私のしもべは、多くの人が正しいものとされるために彼らの罪を自ら負った」とあるではありませんか。病が癒されるだけではない、いや、それ以上に罪を赦して頂けるのだ!それが彼の希望でした。そして、罪の赦しを宣べ伝えているという男。多くの人の病をいやし、悪霊を追い出しているという男、イエスのところに今、彼は来ているのです。人々はイエスに夢中で彼に気づかなかったのでしょうか。でも、自分の隣に重い皮膚病の人がいると知ったら恐怖の表情を浮かべて遠ざかったでしょう。ここに病の人がいるぞと叫ぶ人もいたかもしれません。しかし、彼は来たのです。普段は町の外におり、人に会わないように生活していた彼が来たのです。しかし必死の思いで来たのです。とうとうイエスのそばに来たのです。他の人はどうだったのでしょう。イエスのそばに行きたい。でも、汚れた人がそこにいる。それでは近づけない遠巻きにしていたでしょうか。彼はひれ伏して「主よ」と呼びかけました。ニコデモはラビと呼びかけました。ある金持ちの青年は良い先生と呼びかけました。しかし、彼は主よ、と呼びかけたのです。これは、彼がイエスをメシアと信じての告白、呼びかけです。イザヤ書を思い浮かべながらの呼びかけです。ユダヤ人たちは、メシアだけが重い皮膚病を癒すことができると信じていたのです。彼は続けました。「御心ならば、私を清くすることがおできになります」。多分御心ではないだろうけれど、多分私のようなものは相手にされないだろうけれど、ということではありません。彼は、イエスに癒す力があるけれども、それは自分が主張して「私を癒しなさい」と言うような、また言えるようなものではなく、ただただ恵みによって、主の思いだけによってなされる神の御業なのだということを心得ていたのです。イエスはどうしたでしょうか。人々は恐れ、惑い、距離をとったでしょう。イエスは、「手を差し伸べて触れた」のです。人々は固まったでしょう。重い皮膚病の人も決して予想していなかったイエスの行動です。彼に触れたのです。彼にとっては、一生人が自分に触れるなどということは考えられないことです。人々にとって彼に触れることは絶対にしたくないことです。しかし、主は触れたのです。私はあなたの友だ、私とあなたは一体だ、というメッセージです。そしておっしゃいました。「よろしい、清くなれ」。今まで聞いた言葉は、「あっちへ行け」、「近寄るな」、「お前は神に見捨てられているのだ」という軽蔑の言葉でした。しかし、「よろしい」とおっしゃったのです。あなたはあなたです。私は、そのあなたを大切にします。そして、「清くなれ」とおっしゃいました。この言葉も三つの意味を持っています。第一に病からの解放宣言です。イエスには病をいやす力があります。現代において、直接にがんが癒される、難病が治る、それもあります。大いにあります。しかし同時に、その病の中でしか味わえない主との深い交わりを、健康な人が味わえない交わりを味わうという形で癒され、さらに特別の恵みにあずかる人もいます。先日祈り会に来てくださいましたあるご婦人のお子さんがそのような人の一人です。他にもたくさんいます。病からの解放宣言。第二に社会への回復宣言です。この人のようにキリストを信じるなら社会的に回復されることができます。キリストを信じても、いつまでも社会への恨みから解放されず、過去の経験に引きずられている人がいます。これまたたくさんいます。結果として人への恨みから解放されず、人間関係がうまくいきません。それは、不自然な状態なのです。第三の宣言。それは第二の宣言と密接に関連しています。その第三の宣言は自分の回復宣言です。主に触れていただき、過去を手放し、というよりも「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」というローマの信徒への手紙8章28節を信じ、つまり自分をかけてアーメン、その通りと告白するならば本来の自分が回復され、人との関係は整います。そして、それが社会的な回復をもたらします。その意味で、第二の宣言と第三の宣言は密接に関係しているのです。あなたには困った人がいますか。おそらく誰にもいるのでしょう。私にも、正直困った人がいます。長い間、困らされています。でも、その人によって神様に頼ることを知った、いなかったら今の様には主を知らなかったと心から告白することができます。これらの出来事はどこから始まるのでしょうか。この重い皮膚病の人の出来事はどこから始まったのでしょうか。自分が病気であることを認め(もう、認めざるを得ませんでした。でも、認めない人が大勢いるのです)、人をかき分けてでも、だれが反対しても、そのままのありさまでイエス様のところに来ることです。そして、かけることです。あなたがメシアだ、と。私を救ってくださる方だと。そして、御心ならば清めてくださいますと告白することです。勇気がいります。かっこ悪い自分そのままです。でも、隠さず、飾らずに告白することです。そこで初めてイエスとの出会いが起こります。あの人のせいだ、この人のせいだと言っている間、イエスとの出会いはものの見事に起こりません。それらを捨てて、そのままでイエスに近づくとき、あなたの人生の物語、いままでと全く違う展開が新しいが始まります。今日は、2018年最後の主の日の礼拝です。イエス様を信じ、新しい物語の一ページとして来年をお迎えになりませんか。

print
Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0