喜んでささげよう マラキ 1:7-10

今日は、あまり皆さんが開かないかもしれない聖書箇所からのメッセージです。マラキ書は、旧約聖書最後の書です。神様は、マラキを通して民に語られ、その後400年の間沈黙されます。皆さんが、愛する人とこれから1年、5年、あるいは10年会う事が出来ないとしたらどうでしょう。ぜひ、このことだけは伝えたいという事を語るでしょう。マラキ書とは、そのような思いで語られた神様の言葉です。核心は、「あなた方を愛している。わたしの愛を受け入れてほしい。帰ってきてほしい」というものです。そんな言葉の中から、今日は1章7節から9節をテキストとしてメッセージをお伝えします。祭壇、とありました。祭壇とは何なのだろう。創世記8章20節に、洪水の後、ノアが祭壇を築いたとあります。しかし、祭壇という言葉は出てきませんが、アダムとエバの子、カインとアベルが主に捧げものをしたことが創世記4章に語られています。もちろん彼らは神様に捧げものをすべきことを両親から聞いたのです。ですから、アダムとエバがエデンの園から追放されて以来、ノアも、アブラハムも、イサクもヤコブも、ずっと祭壇は築かれ続けてきたのです。祭壇とは何か。いろいろなことが言えますが、“神様との接点”という事が出来ます。7節で祭壇は「主の食卓」と言い換えられています。一緒に食事をする場所です。大切な人であるならば料理に腕を振るうでしょう。食卓で、あなたと相手の人の関係が分かるのです。つまり、あなたが神様をどのような方としているのか。あなたは神様とどのようにかかわっているのか。あなたにとって神様とはだれなのか、何なのか。祭壇は、そのことを現わします。マラキ書に戻りますが、神様は、祭壇を見れば民が神様のことをどう思っているのかがわかるとおっしゃいます。そして、マラキを通して、その時代のユダヤの人々が神様を軽んじているのが良く分かるとおっしゃっています。6節の最後のところです。彼らの捧げものを神様は「汚れたパン」とおっしゃっています。汚れたパンとは何でしょう。カビの生えたパンでしょうか。腐ったパンでしょうか。必ずしもそうではありません。当時の人々は熱心に、最上の動物を捧げていたのです。しかし、汚れている。ですから、問われているのは捧げものの品質ではありません。捧げる心です。さて、私たちは彼らのように犠牲の動物を捧げたりはしないのですが、でもこの言葉はわたしたちにも語り掛けています。あなたは、私は汚れたパンを神様に捧げていないだろうか。私たちの汚れたパンとは何か。まず、わずかばかりの捧げもの。余りもの。そんな捧げものです。捧げものは献金だけではありませんが、分かりやすいので献金を例にします。皆さんは、月のお給料なり年金の方もいるでしょうか、まず神様への捧げものを取り分けているでしょうか。それとも、衣食住の費用、通信費、遊興費・・、とまず自分のためのお金を確保して、それから献金でしょうか。老後のためのたくわえを確保して、余ったら献金でしょうか。そうであるならば、あなたの捧げものは汚れたパンです。おっしゃるかもしれません。でも、現実に生きていかなければならないのだから。そのことについては、少し後にお話しします。それからもう一つ、取引材料としての捧げものは汚れたパンです。神様を動かすための捧げもの。何かを頂くための捧げもの。商売繁盛、無病息災、家内安全、交通安全。これは、キリスト者でも注意しなければなりません。見返りを期待する思いが、スッと心に入ってくることがありうるからです。癒しもあるでしょう。商売についても道を拓いてくださるでしょう。しかし、神様の求めるのは、どんな状況でも神様が支えて下さっているという事実を信じる人です。癒された十人のうち、お礼に来たのは一人だけでした。九人は、癒されたことに満足してしまい、その奥にある主との深い交わりを知ることはなかった。残念なことです。さて、先ほどの問いに戻ります。余りものを捧げるのではない。まず最初に取り分けて捧げる。意味のあるもの、つまり献金であれば捧げても何の影響もないような額ではなく、少しの痛みを伴って捧げる。つまり、主は生きておられる。主が必要を満たされるという信仰をもって捧げる。でも現実を考えると、という事でした。マラキ書の3章10節を見てみましょう。「十分の一の捧げものをすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう」。聖書は神を試みてはならない、試してはならないと言いますが、唯一許されている試しがこの事という事になります。「十分の一」とは、余りものではない、意味のあるものという事です。ですから、必ずしも収入の十分の一という事ではありません。意味のある捧げものとするために五分の一捧げられる人もいるでしょうし、逆に三十分の一しか捧げられない人もいるでしょう。額の問題ではないのです。思いを込めて、神様は必要を満たしてくださるという信頼を込めて捧げることがポイントです。神様はおっしゃいます。そうするなら必ず祝福を限りなく注ぐ。イエス様もマタイの福音書でおっしゃっているではありませんか。何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。日々のやりくり、老後の貯え、それらは大切かもしれないけれど、それを第一にしてしまう。そうすると思い煩いがやってくる。あなた方は、全能の神、あなたを愛し、あなたを引き受けてくださった神様があるのだからそうあってはならない。マタイによる福音書6章33節です。イエス様の言葉です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。皆さんの捧げものはどうでしょうか。神様への信頼を反映しているでしょうか。もしも、そうでなかったという方がおられるならマラキ書1章9節。「今、神が恵みを与えられるよう ひたすら神に赦しを願うがよい」。遅いことはない。今、悔い改め、主が私を引き受けてくださっているという事実をもう一度確認して捧げよう。最初に申し上げましたように、捧げものは献金だけではありません。時間や賜物、あなたの持てるもの、いや、あなた自身を捧げる。そこに秘訣があります。本当の意味で豊かになる秘訣です。それを献身と言います。人生成功の秘訣は神様への献身です。神様の愛に生きること、神様への信頼に生きることです。そのように歩まれて、豊かな祝福を受けられますように。

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