大いなる光が差し込んだ ローマ 7:7-8:1

今日は、ローマの信徒への手紙7章7節から8章1節を読んで頂きました。なぜ7章25節で切らなかったのだろうと思われた方もいるのではないでしょうか。そして、7章25節と8章1節は全く別の事を語っているように感じる事と思います。事実ここで一つの章が終わり、新しい章が開かれているではないか。しかし、ご存知のように聖書の章や節は後からつけられたもので、原典においてはそのようなものはありません。そして、わたしは、ここで章を区切ってしまったのは非常にまずかったのではないかと思っているのです。確かに飛躍があります。しかし、その飛躍はとても大切な事を伝えていると思っているのです。このことはまた触れることにします。もうひとつ、皆さんは思われたのではないでしょうか。善をしようと思うのだけど出来ず、悪は望まないのにやっているわたしがいると語っています。これは誰の事を言っているのだろうか。クリスチャンだろうか、クリスチャンでない人だろうか。まず、ここを手掛かりにお話しを始めたいと思います。みなさんが自分に語られているのかそうでないのかを知ることは重要なことだと思うからです。まず、これはイエスを信じる前のパウロの経験を言っているのでしょうか。以前はしたくない悪を行い、したいと望む全は出来なかったと言っているのでしょうか。しかし、聖書を読むとパウロはキリストに出会う前、律法を守ることに関しては落ち度がなかったと言っています。だから、それは当たっていないようです。それでは、イエス様を信じない人や、信じる前のキリスト者の状態を言っているのでしょうか。そして、キリストを信じれば望む善だけをするようになると言っているのでしょうか。しかし、イエスの弟子たちを知ると、イエスに死ぬまで従うと言いながら(これは望む事でしょう)いざ危険が身に迫るとイエスを捨てて逃げてしまう(これは望まない悪でしょう)姿に出会います。キリスト者であるわたしたちの経験も同様で、もしもこの個所が信じる前の事を言っているのであり、信じたら善だけをするようになると言われたら、自分はクリスチャンですと言う事は出来ないでしょう。また、キリスト者とそうでない人の間と言いますか、まだ信仰をはっきり持っているわけではないけれども聖書を読んだりメッセージを聞いたりして罪を示された人の状態を言っているという仮定も成り立つかもしれません。しかし、そうであるなら“わたし”という主語は不自然です。そうすると、これは実にキリスト者の姿を語っているのだという事になります。キリスト者であっても罪の性質からは自由ではなく、したい善をする力がなく、したくない悪をしてしまうという事を語っているのであり、それは私たちがいつも経験する事実です。その経験を、パウロはむさぼるなという律法、掟との関係で語ります。考えてみると人間の歴史はむさぼりの歴史という事が出来ます。国が国をむさぼり、民族が民族をむさぼり、人が人をむさぼる。神との関係においてもまさにそうです。アダムとエバは善悪を知る木の実を食べて神のようになろうと思った。神をむさぼったのです。十戒においても殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、人のものをむやみと欲しがってはならないとむさぼりについて戒められています。私たちは主の祈りを皆さんで祈りますが、わたしはいつも教えられる思いがします。イエス様は、神さまがあがめられますように、神様の思いがなされますようにと祈り始めなさいと教えてくださいました。神様を賛美し、ほめたたえ、喜ぶ祈り、その後でわたしたちの必要を祈るように教えられました。しかし、私たちの祈りはどうでしょうか。病気が癒されますように、健康でありますように、祝福がありますようにと、まず自分の願いを祈るという事をよくしてしまうのではないでしょうか。それらは祈っても良いのですし、祈るべきなのです。しかし、むさぼりの祈りになっていないだろうか。第一の祈りが願い事になっていないだろうか。そう問う必要があると思います。さて、パウロがむさぼりを取り上げて論じた後、自分のしたい善はする事が出来ず、望まない悪はしてしまうという時、これは彼自身の経験だったに違いないと申しました。私たちはうっかりするとパウロを偶像化します。パウロは完ぺきで、罪から自由で、だから愛し合おうではないか、主に仕えようではないかと励ます事が出来たのだと思いがちです。しかし、彼は、苦悩しながら人に教え、励ましていたのだと思います。偽善者だと言われるかもしれません。わたしは、はっきり言ってパウロは自分でそう思いながら、でも使徒として立てられた使命として人々を教え、励ましていたのではないかと思います。彼の語った言葉は、そのまま自分に語っている神の言葉だったと思います。ですから彼自身、テモテへの手紙一1章15節で「わたしは、その罪人の中で最たるものです」と言ったのです。彼は、決して本当はそうは思っていなかったけれども謙遜を装ってそのように言ったのではありません。さて、そうするとどうなのだろう。クリスチャンになる前、したい善はする力がなく、したくない悪をしてしまうといういわば闇の中にいた。クリスチャンになったらしたい善をし、したくない悪は行わなくなるのではないかと期待してクリスチャンになったけど、依然として状況は変わらないとしたら何の益があるのだろうかと思われるでしょう。しかし、実は、この罪に対してどうにも戦う力がない。全く無力だ、むさぼりたくないのだがむさぼってしまう自分があるというその無力さの中ではじめてわたしたちは光を見るのです。初めてイエスの十字架と復活が何なのか、どんなに豊かな富がそこにあるのか、どんな恵みに満ちているのかを知るのです。ペテロはフィリポ・カイザリヤでイエスをメシア、生ける神の子ですと告白したとマタイによる福音書16章15節にあります。一般的には、これこそがペテロの大告白とされますが、前に申し上げた事がありますが、わたしはこの告白をそれほど評価していないのです。高揚した気分の中で出て来たもので、それほど根付いた言葉とは思えないのです。事実、その後彼は死んでもイエスに従って行くと言いながら三度イエスを知らないと、神にかけても知らないと拒んでしまう事になります。イエスをメシアと告白する言葉はありませんが、ヨハネによる福音書21章15節からに伝えられているイエスとペトロの会話、イエスが三度ペトロに「わたしを愛するか」と問い、ペトロが友達として愛しますと告白する事しかできなかった。でも、その時イエスはペトロに牧者としての使命を与えたというあの記事です。その時のペトロは、まさに今日読んだローマの信徒への手紙7章7節から25節のペトロだったと思います。罪に対して無力だ。もし、イエスが捕まって十字架へというあの出来事をもう一度という事になってもまた知らないと言ってしまうのではないかという絶望の中にいるペトロです。しかし、そこに光が入ってきた。それがイエスのまなざしであり、「わたしの羊を飼いなさい」、つまり、わたしはあなたを必要としている、あなたは私の大切なものだという声だったと思います。ローマ書8章1節の光です。「今や、キリスト・イエスに結ばれているものは、罪に定められることはありません」という光の言葉です。イエスは十字架に死に、葬られ、そして復活した、復活した・・という言葉です。ペトロは自分の信仰に失望した、そのどん底の中でイエスの光を見、そこでイエスは初めてご自分のために用いる事の出来るペトロを見たのです。私たちも同様です。自分の信仰もそれなりのものだと思っている時には、その光は見えて来ません。自分自身が光を放っていると誤解している時に本当の光は見えないのです。そのような自負が消えて闇になった時、初めて本当の光が見えてきます。「暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上、光が輝いた」。イザヤ書9章2節の御言葉です。マタイは、その福音書4章でこの御言葉がイエスにおいて実現したことを伝えました。
そのイエスに結ばれている幸い。ここに帰ることのできる幸いです。恵みの中に身を置くことのできる幸いです。わたしたちは、罪の法則に従ってしまう事があるでしょう。しかし、そのたびごとに主の恵みの光に照らされて建て直され、歩み続けるのです。

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