実を結ぶ生き方 ローマ 7:1-6

今日は、聖書を読みかえてみたいと思います。と聞くと、皆さんギョッとされたのではないでしょうか。聖書に付け加えたり一部を取ってしまったり、書いてあることを捻じ曲げてしまうなどとんでもないことだと思われると思います。その通りです。私たちは聖書をそのまま読んで、そこから神様に聴かなければなりません。と同時に、聖書は一番新しいところでも2000年ほど前に、しかも異なった文化の中で書かれたものでもあります。ですから、その言葉が私たちの時代、私たちの文化の中で何を語っているのかを聴きとらなければならないのも事実です。今日の個所は結婚の比喩が用いられています。そして、結婚の相手は律法でありイエス・キリストです。この律法、私たちになじみがない。それもそのはず、神様の律法はユダヤ人に与えられたものだからです。私たちは、ユダヤ人のように小さい時から律法を教えられ、それによって生活するという経験がありません。ですから、何か遠いものに感じます。だから、今日の聖書個所で律法に死んだといわれてもピンとこないのです。ところで、このローマ書の1章、2章を思い返しますと、私たちは、自然を通して、律法を通して、そして良心を通して神様を知ることができるとありました。このうち、自然と良心は私たちも共有しています。律法はユダヤ人だけのもので共有していません。そして、2章15節を読みますと、異邦人でも律法の要求する事柄がその心に記されており、良心もこれを証ししているとあります。ですから、律法を良心と読み替えると私たち異邦人には今日の聖書個所が伝えていることを読み取りやすいということになると思うのです。さて、結婚が比喩として用いられていました。一人の人に夫があります。良心という夫です。この夫はとても厳しい。道徳的に高い水準を要求してきます。あるいは、世間体を考えなさいと言ってきます。そんなではみっともないではないか、もっとしっかりしなければ駄目じゃないかと言ってきます。もうちょっと息がつきたいなー、マイナスの事ばかり言われて辛いなーと思いますが、結婚しているので逃れることができません。その夫の力のもとにいると死に至る実を結ぶと5節にあります。つまり、息が詰まると言いましたが、本当に精神的な息が詰まってしまうのです。するとどんな実を結ぶのかと言いますと、自分はダメだという実です。喜びがない。いつも人の目を気にして、駄目なことがばれないようにしなければならない。または、自分よりもっとダメと思われる人を見つけてどこかで安心してしまう。その人に駄目ということで自分は免罪されるような気持になったりする。なんとも不健康な感じですが、私たちはみなこの夫を持っているのです。この夫から自由になるためにはどうすればいいのか。夫が死んだら自由だと2節にあります。死が結婚を解消します。夫が死ねば自由になるのですが、4節を読みますと夫ではなく私のほうが死んだと語ります。キリストに結ばれて、律法に対して死んだものとなっていると書かれています。この律法を良心と読み替えているわけですが、キリストに結ばれた結果、こうあらねばならない、こうあってはならないという縛りから解放されたというのです。夫が死ぬか私が死ぬかで転換がありますが、要は死が二人を分けるということです。キリストは何から私たちを解放してくれたのか。コロサイの信徒への手紙2章11節から15節を読みますと、「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。)」とあります。何が取り除かれたのか。私たちを訴えて不利に陥れていた証書です。あなたは人をねたみました。恨みました。弱いものをいじめてうっ憤を晴らしました。自分のために人を踏み台にして苦しめました。それは仕方のないことだと言って自分を納得させました。神を愛しませんでした。神以外のもの、つまり偶像を頼りました。などなど、たくさんの不利な証書があります。良心の要求にこたえなかった、答えられなかったという証書です。いろいろ理由をつけて、これはしょうがないのだと納得したという証書です。それらの責めをイエス様ご自身が十字架で負って下さり、全部破棄してくださったというのです。私たちが死によって夫から自由になるために、実にイエス様が死んでくださったのです。そして、私たちは本当に自由になりました。しかし、自由というのは野放しという事ではありません。~からの自由とは、同時に~への自由ということです。これがないと、また混乱に陥ることになります。野球をしようというとき、何の規則もなかったら自由で楽しいでしょうか。ゲームになりません。私たちが解放されて自由にされたのは、前の厳しい夫、死に至る実しか結ばせてくれないような夫から、命に至る実を結ばせてくれる夫と結ばれるためです。神に対して実を結ぶための自由です。6節にある新しい生き方への自由です。その新しい生き方を霊に従う新しい生き方と言っています。口語訳聖書では「新しい霊によって」とあります。ギリシャ語の本文では霊の新しさでとあります。新しいスピリットでということです。どんなスピリットで生きるのかと申しますと、恵みの中に生きるというスピリットです。恵みの中に生きるということは、私たちはいつも帰るところがあるということです。いや、帰るも何も、実は故郷を離れることはないということです。どんな時も神様の恵みの中に包まれているということです。ところで、死が分け隔てたと言っても前の夫の声が心の中に残っていることでしょう。駄目じゃないか、何だ、それは・・という声が聞こえて来るでしょう。そして、その指摘は当たっている。正しいのです。図星なのです。私たちはそう言われても仕方がないのです。しかし、その声にめげてしまう必要はない。なぜなら、もうその夫のもとにはいないからです。そうではなく、恵みのもとにいるからです。でも、あなたはおっしゃるかもしれない。そんな甘やかしたら駄目になる。以前、カウンセリングを学んでいるとき、こんな話を聞きました。今まであまり愛情をかけることができなかったお子さんとの関係を築きなおしたいというお母さん。その子にとって買ってもらうことが愛情確認のようでした。カウンセラーは、その要求にこたえるように勧めたそうです。すると、とりとめもなく買ってくれという。不安になったお母さんは、大丈夫かと聞きます。カウンセラーは言ったそうです。「大丈夫。愛情を確認したらねだらなくなります。でも、あなたは惜しがって買ってはなりません。破産するつもりで買ってください。」大変な要求ですよね。私は、このカウンセラーの処方が正しいのかどうかは良く分かりません。でも、イエス様は私たちを厳しい、古い夫から自由にするために破産してくださったのです。与えつくしてくださったのです。赦し尽くしてくださったのです。だから、新しい霊、新しいスピリットに従う生き方とは、このことを覚え続ける生き方です。イエス様がなしてくださったことに目をとめて感謝し続ける生き方です。その時に、以前とは違う実を結ぶようになります。神に対して実を結ぶようになっていきます。私たちの力でではありません。そのスピリットの土壌に神様が実を結ぶのです。ガラテヤの信徒への手紙5章22節に「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」とあります。私の実ではありません。御霊の実です。聖霊なる神様が結ぶ実です。その実を結ぶ土壌、それが恵みに生きる生き方なのです。

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