山上の説教(21) 主の祈り 2 マタイ 6:9-13

主の祈り、二回目のメッセージです。前回は、主の祈りは、イエス様が示してくださいました模範の祈り、祈りのパターンであること、また、祈りは、自分自身に関することを祈るのであっても、それは教会の祈り、教会の出来事であることを学びました。学びを進めたいと思いますが、今日は、「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように」という冒頭の祈りに注目しましょう。「天におられる」とは、どういうことなのか。地に対する天ということで、どこかに天という場所があるのだろうか。また、創世記の冒頭に「初めに神は天と地とを創造された」(口語訳)とありますが、この天と同じだろうか。いろいろな質問がわいてきます。まず、創世記一章一節の天と、主の祈りの天は違うことを確認しましょう。なぜ、違うことが分かるかというと創世記の天は神が創造されたとあるからです。それより前は無かったのです。つまり、この天は星々が輝き、銀河系をはじめとする小宇宙がたくさんある、あの天のことです。それらは、神が造られたと伝えます。だから、造られたときには神はもう存在しておられました。つくられる前から、神は主の祈りで言われる天におられたということです。つまり、この天は、物質として、あるいは空間として存在して、あそこに、ここにという形でどこかにあるものではありません。そのような場所として、天におられる神というのでなく、絶対者として、独立して、何物によって支えられる必要もなく、助けられる必要もなく「ある」お方ということを表しています。神様がモーセに現れた時、ご自分を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたのは、この事を表しています。さて、神は絶対者ですけれど絶対他者ではありません。そのことは、イエス様が神様に父と呼びかけるように教えられたことから分かります。神様は人格です。神様は、ある人が考えるように人格のない力のようなものではありません。仏教でいう法(ダルマ)のようなものではありません。完全な人格として、いつも私たちにかかわって下さいます。わたしたちは、適当にお付き合いするということが正直あるでしょう。相手が話しているのに聞き流すということもあるでしょう。また、それは当然でわたしたちのコミュニケーションにはカウンセリングのような深いコミュニケーションもあれば時候のあいさつ、朝のあいさつのような習慣的なもの、浅いといえば浅いものもあります。しかし、神様は、いつも全身全霊でかかわって下さってくださいます。たとえ「おはようございます」というあなたの朝の最初の祈りの言葉でも、しっかりと受け止めてくださいます。そういうお方です。そのような人格を表すのに、当時は「父」という言葉が最もふさわしかったのでしょう。父は一家を支え、一人一人の必要に目を配り、その必要を満たしました。その必要は物質的なものだけでなく精神的な必要にも霊的な必要にも気を配りました。そのように真剣に、責任をもってかかわってくれる人格を表すのにふさわしいのが「父」だったのです。ですから、神様が男性であるとか、俗にいう父性しか持たない方、母性という言葉で表されていた優しさとか包容力とかには欠けているとか、そんなことではありません。例えばイザヤ書49章15節には「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない」と神様はご自分を母親に譬えておられます。同じイザヤ書46章3節では「わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた」と、出産し、育てる母親の姿にご自身を重ねておられます。また、創世記1章27節に「神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」とあるように、ご自分のかたちに人を造るにあたって女だけでも男だけでも足りなかったのです。ですから、わたしたちは「天におられるわたしたちの父よ」と祈りますが、男性を思い浮かべる必要はありません。申しましたように父と呼びかけるようにとイエス様が教えられたことには文化的な背景があります。ですから、父性、母性という一方的な言い方をするのが適当とは思いませんが分かりやすくするためにこの言葉を使わせて頂きますが、父性としての神様に祈るとともに母性としての神様に祈っていいのです。具体的には、指示を祈り、導きを祈り、また慰めを祈り、やさしく包むと意味での励ましを祈ることができますし、それらすべての私たちの必要を神様は満たすことができますし、満たそうとしておられます。神様は、わたしたちを放っておけないのです。わたしたちが痛むとき、その痛みを共にすることをいとわれないのです。その中で支え、励まし、導き、すべてを祝福に変えることをせざるを得ない、そうしたいといつも願っておられるのです。どうしてそんなことが分かるのかと問われるでしょうか。それは、わたしたちが十字架のイエスを見るときにわかります。フィリピの信徒への手紙2章6節から8節には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。人となって来られ、わたしたちの真ん中に住まわれました。それがイエスさまです。そして、わたしたちの怨念、憎しみ、怒り・・・、それらを生み出す罪を引き受けて下さり、その裁きを受けて下さったのです。真ん中に住まわれたというのは、わたしたち誰もが味わう人生の酸いも甘いも味わい尽くされたということです。誘惑に負けることはありませんでしたがあらゆる誘惑を経験されました。ですから、ヘブライ人への手紙4章15節にあるように「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあります。今日、神様は、わたしたちに全身全霊をもってかかわって下さると聴きました。わたしたちの心の一番深いところにある、自分でも気づかない、そんな声にも耳を傾けてくださる。そういうお方です。しかも、イエス様は超然と清いところのおられて見下ろしている神ではありません。わたしたちのところに来られ、試練にあわれ、苦しまれ、わたしたちと同じ体験をされました。だから、大胆に近づくことができます。ヨハネによる福音書14章6節から11節に次のようにあります。少し長いですが、お読みいたします。「『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」
イエス様は、父なる神と一体であることを明かされました。イエスを見るとき、わたしたちは父なる神様がどのような方なのかを知ります。キリストに近づくとき、わたしたちは父なる神様に近づいているのです。イエス様を通して祈る時、わたしたちの父なる神様に祈っているのです。天におられる、絶対者として、でも愛をもって耳を傾けてあなたに聞き、あなたを導かれる父なる神様に祈ることの出来る幸いを感謝しましょう。

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