山上の説教(22) 主の祈り 3 マタイ 6:9-13

山上の説教を読み続けて22回目のメッセージです。今日も主の祈りを読みますが、今回は「願わくは御名をあがめさせたまえ 御国を来らせたまえ 御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りを考えましょう。お気づきになられたように、毎週の礼拝の中で祈る時の文語の言葉でご紹介しました。新共同訳聖書では「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」となっています。わざわざ文語でご紹介したのは、「願わくは御名をあがめさせたまえ」という訳の方がいいのではないかと思うからです。聖書の訳では他人事のように「神様の名がたたえられますように」と祈っています。しかし、祈祷文では「願わくは御名をあがめさせたまえ」。この「願わくば」は大切だと思うのです。祈ること、あがめること、その為に神様に近づくことは当然なことではなく許されたこと、特別なことだからです。へブル人への手紙4章15節、16節には「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあります。この大祭司とはイエス様のことです。この言葉はイエス様は神であるけれど人となり、地上で生きられ、ご自身の命をもって私たちの罪を引き受けて下さった、裁かれてくださった。この事実のゆえに大胆に神様に近づき、祈ることができる。つまり、あなた方は祈る特権を与えられているのだと伝えています。だから、ありがとう、祈らせて頂きます。願わくば、神様の御名が崇められますように、と祈るのです。さて、この祈りを祈る時、出エジプト記20章4節からの言葉を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。そこには、こう記されています。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。・・・あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」この御言葉と照らし合わせて読むとき、「御名をあがめさせ給え」という祈りは、「神様、あなただけを神とします。偶像を造ったりそれにひれ伏すこと、つまりそれに信頼する事をしません。木や石でできた偶像だけでなく、この世にある力や財、人の助けや自分の経験。それらは大切なものだし有用なものだけれど何よりも頼りにすることはしません。それらを神様にはしません。わたしは、神様だけに信頼し、これらのものは神様にあって用いるもの、神様に委ねます」、という告白です。そして、「御心が天になされるごとく地にもなさせたまえ」とは、神様のご意思が天で完全になされているように、この地でも、わたしたちが住むこの世界でも、そして私の人生においてもなされますようにという祈りなのです。そこで、わたしたちは自分自身に問いかけます。わたしの祈りは、イエス様が教えて下さったように祈っているだろうか。自分の問題が解決されるように、仕事が祝福されるように、病が癒されるように、試験に合格しますように、コロナ・ウィルスに感染しませんように…、と祈ります。フィリピの手紙4章6節には「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とあります。ですから、そのような祈りもするべきです。しかし、もっぱらそのような、いわば神様にサービスさせるような祈りばかりしていることはないだろうか。ご利益宗教という言葉には、見下げたようなニュアンスがあります。そしてキリスト者は、キリスト教はご利益宗教とは違うのだ、などと言ったりします。でも、本当にそうだろうか。わたしの信仰、わたしの祈りはご利益、こうしてほしい、ああしてほしい、守ってほしい、うまくいきますように・・と、そんな事ばかりを祈っているのではないだろうか。イエス様は、(これはこれから学ぶところですが)日ごとの糧を祈る祈りを「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心がなされますように」という祈りの後に置かれました。この順番は、大切な教えを含んでいると思います。神様に信頼して、全幅の信頼をして「あなたの御心がなされますように」と祈る。そして、その信頼の中で今日の必要、病の癒し、仕事の助けを祈るのです。さて、「御国が来ますように」という祈りについては、もう少し思い巡らしたいと思います。御国というのは、神様のご支配、統治、愛と義によって治められる、そのようなことです。わたしたちの教会の信仰告白に、「イエスは文字通り再び来られる。そのときには裁きが行われ、不正は取り除かれ、地に平和がもたらされる」とあります。わたしは、人は地に平和がもたらされることをずっと望み、努力し、今も、これからも努力するでしょうし、教会はそれとは無関係で心の問題だけ扱っていればいいのだとは思いません。しかし、同時に教会の働きや人の努力によって正義の世界が実現することはないと知っています。イエス様が再び来られて、その時に争いは止み、差別はなくなり、不正は正されて義と平和がもたらされると聖書は伝えています。そういう意味で「御国が来ますように」と祈ります。新約聖書の最後の書物である黙示録も「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉で閉じられています。そのことを信じるとともに、神のみ国は、今は影も形もないのかというとそうではありません。実に教会こそが神の御国を反映するものです。えー、というかもしれません。罪人の集まりである教会が神の御国を映すものなのだろうか。高慢になったり、卑下したり、争いが起こったりするかもしれない教会。それが神の御国を映すものなのだろうか。もしも、完全に清く、罪から全く離れ、イエス様が愛されたように愛し合い、与えあい、完全に自分を愛するように人を愛する関係に満たされている。そんな形で神の御国を映すのであれば、合格する教会は一つもないでしょう。しかし、本当のことを言うと、教会が醜い姿をさらすとき、そのことにどのように対するかに神の御国を映す教会なのか、神のご支配を受けている教会なのかが現れるのです。抱える問題を直視することをせず、見て見ぬふりをしたり、誰かに責任を負わせておしまいにしたりするならば、その教会は御国を映すことができません。ひどいことだと教会を去ってしまっては、御国を映すことは出来ません。教会全体の問題として直視し、自分の問題として悲しみ、悔い改め、悔い改めというのは、問題のもとになった人がいるならばその人は神と教会の前に悔い改め、教会はその人を赦して受け入れなければならないとともに、そもそもそのような問題を生んでしまったことを教会として悔い改めなければなりません。人は、問題に目を留めて「これが神の御国か」というかもしれません。しかし、神様は問題よりもむしろ、その問題にこのように対するのかをご覧になります。そして、正しく対処する知恵と、恥ずかしさを超えて悔い改めをする力を与えてくださいます。そのような聖霊の働きに応答するときに教会は最高に神様の御国を映すことができるでしょう。

print
Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0