山上の説教(23) 主の祈り 4 マタイ 6:9-13

イエス様が教えて下さった祈り、第四回目になりました。今日は11節を読みます。最初にいくつかの訳を読み比べてみたいと思います。まず、新共同訳では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と訳しています。口語訳では、「わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください」、新改訳では「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」、そして、聖書協会共同訳では「わたしたちの日ごとの糧を今日お与えください」と訳しています。すると、二つの点で違った訳があることが分かります。まず、“今日お与えください”なのか“今日もお与えください”なのか。そして、“必要な糧”なのか“日ごとの糧、あるいは食物”なのかということです。原文と照らし合わせると“今日も”ではなく、“今日”であることが分かり、こちらの訳の方が原文に忠実であるだけでなく、信仰生活の在り方から見ても忠実だと思います。また、“必要な糧”よりも“日ごとの糧、または食物”の方がニュアンスを伝えています。さて、そのようにこのイエスの言葉を読んだうえで三つのことを思い巡らしたいと思います。まず、「わたしたち」とはだれかということです。次に「日ごとの糧」ということについて、そして、「与えてください」という言葉を思い巡らしたいと思います。まず、「わたしたち」とはだれか。わたしの糧ではなく、わたしたちの糧です。もとより祈りは、個人的な祈りでも全く個人的な事柄ではなく、教会の事柄なのだということをすでに学びました。確かにまず私の食物かもしれません。しかし、キリスト者の祈りは自分のことにとどまりません。教会の仲間たち、そして、人類までにも広がっていきます。救いについて、とりなしの祈りをすることを神様に期待されているように、食物のことについてもとりなしの祈りをすることを期待されています。第二に、「日ごとの糧を」与えてくださいと祈るということです。もちろんそれは、スーパーに行って数日分買いだめしてはいけない、毎日、その日の分を買いに行かなければならないという意味ではありません。ただ、何日分か買うと安心する。さらに、来年も、再来年も買えるだけのお金があれば安心するといった具合に、わたしたちはいつも、どこか不安であり、将来に備えたいものであり、その備えも多ければ多いほどいい。100万円あればと思っていたが100万円貯まるともっと、500万円あってももっと、という具合できりがないものです。しかし、この安心を求めるあり方には落とし穴があると聖書は警告するのです。箴言30章7節から9節にこんな御言葉があります。「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。」持ちすぎるとそれに頼ってしまう。少なすぎると盗まないまでも不安に圧倒されてしまう。そのようなことがないように、多すぎも足りなすぎもないところで、主に日々の糧を頼り、感謝していただくことができる。これがいちばん人間らしく生きることができるのです。実際、食料に代表されていますが、物は人の目から事実から覆い隠します。事実というのは、主がおられるということです。主が導き、必要を考えて下さっている。頼るべきは有り余る食料ではなく、財産でもなく主であるということです。そうそう、皆さんはルカによる福音書12章13節から21節を思い出されているかもしれません。ある人が、農業ビジネスで成功して大きな蔵を建てた。今までの倉に入りきれないほどの大豊作だったからです。そして、自分にこう言い聞かせたというのです。「魂よ、おまえには長年分の食糧がたくさん蓄えてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」(口語訳)。しかし、彼はその夜死んでしまいます。そして、神様は彼の人生を嘆くのです。「なんて愚かだったんだ。自分のために富を積むのでなく、神の前に豊かになるべきではなかったか。」神の前に豊かとは、主に頼り、導かれ、主とともなる人生を楽しむことです。最後に「与えてください」という祈りについて思い巡らしましょう。与えてください?自分で稼いだものじゃないか。与えられたのではない。本当にそうでしょうか。そもそも、今の仕事ができるようになるためにいったい何人の人が教えてくれ、経験を積ませてくれて・・。それは、親や祖父母、先生や先輩と、出会ってきた多くの人々。その中にいい奴もいれば嫌な奴もいた。でも、その両方と付き合うことで人間関係を学ぶこともあったでしょう。そして健康な体。考えてみれば、自分一人で得たものなどありません。そして、聖書を通して神様は、そのようなあなたの出会いや経験、失敗や成功、すべてが神様の御手の中であなたのために起こったと伝えるのです。だから、与えられたものなのです。神様に与えられたものなのです。これからも、与えてもらうべきものなのです。この視点がないと先ほどのルカ書の金持ちのようになります。わたしの稼いだ私のもの。すべて私、わたし。だから、彼には人と分かち合うという発想はなかったでしょう。もちろん従業員に労働の対価として給料は払ってでしょうが、無償で分かち合う、必要な人に分かち合うという発想は出てこなかったに違いありません。でも、聖書はこういうのです。エフェソの信徒への手紙4章28節です。「盗みを働いていたものは、今からは盗んではいけません。むしろ、苦労して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」この教会には、クリスチャンになる前、泥棒をしていた人がいたのです。悔い改めました。もう泥棒などするまい。そんな彼らに語られています。ちゃんと働いて、正当な収入を得なさい。それは、自分の手で稼いだものだから大手を振るって、自分だけのために使いなさい。ではないのです。あなたは健康を備えられ、仕事が与えられ、働いて収入を得て、今日の糧を得られるのではないか。それは与えられたものではないか。そうであるから、今いろいろな事情で困っている人たち、今日の糧を得ることが難しい人にも分かつべきではないか。「分け与えるようにしなさい」という言葉には、当然そうするべきではないか、というニュアンスが込められています。そして最後に、イエス様がご自分を命のパンとおっしゃったことにも思いを向けたいと思います。ヨハネによる福音書6章35節を開きましょう。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない。」イエス様は命のパンです。今日のパンを与えてください。イエス様を今日も、そして日々思い巡らし、具体的には今日も聖書のみ言葉に聞き、今日も祈り、今日も主の導きを求め、そのように生きていきなさい。実際のパンが体の糧で毎日食べなければならないように、イエスさまというお方は霊の、心の、精神のパンであり、栄養であり、毎日食べなければならないのだ。そして、それはあなたが修行によって、善行を積んで、あなたの力で得たものではない。与えられたものだ。だから、イエスの福音を与えなさい。伝えなさい。主と共に歩むことによって。「われらの日用のパンを今日与えたまえ!」

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