山上の説教(24) 主の祈り 5 マタイ 6:9-13

今日は、いわゆる主の祈りのうち6章12節にあります「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という御言葉を聴きます。ルカによる福音書では11章4節で「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人をみな赦しますから」と伝えています。この祈りが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という、目に見えるものを求める、またある意味現実的な祈りの後に来ているのは興味深いことです。全く違う二つのものを求めるようですが、考えてみれば相互に関連しているように思えます。と申しますのは、少なくともキリスト者にとっては、食べ物と赦しはキリスト者として立つのに不可欠な二つだからです。食べ物については分かりやすい。キリスト者でなくても体を支える食事、栄養が取れなければ生きていられません。今、コロナ禍のなかで感染を食い止めることと経済のバランスということが盛んに論じられていますが、確かに経済がストップしてしまったらこれまた困ることであって、生産が止まる、給料が止まる、食べられない、そうしたら生きられないわけです。なんとも悩ましいバランス議論です。こちらの方は、クリスチャンでなくても分かることです。しかし、負い目の赦し、罪の赦しがなければ生きていかれないということは、キリスト者だけが知っているし、身に染みて感じている事です。キリスト者にとっては糧と赦しは同等と言っていい重要性を持っているのです。確かに罪は問題です。それは、クリスチャンでない人にとってもそうです。そもそも罪とはだれに対して犯すのでしょうか。ダビデという王様は、ウリヤという部下の奥さんバテシバを横取りしてしまいます。今でいう不倫です。子どもができたことがばれるのを恐れ、兵士として戦っているウリヤに休暇を出します。家に帰り、その時に子供ができたことにすればいいと考えたのです。しかし、ウリヤは根っからの武士で、仲間が戦っているときに打ちで楽しむことは出来ないと野宿して過ごします。困ったダビデは、ウリヤの上官に命じて彼を最前線に取り残して戦死させます。とんでもない話ですね。ダビデは誰に罪を犯したのでしょうか。ウリヤと、バテシバに対してです。しかし、この事が明らかにされ、悔い改めた時にビデが読んだ詩編51編の6節を見ると、「あなたに、あなたの身に私は罪を犯し御目に悪事とみられることをしました」と言っています。ダビデは、もちろんウリヤ夫妻に罪を犯したことを知っています。しかし、それでも究極的には、神に罪を犯したと告白しているのです。不思議に思われるかもしれません。責任逃れにすら感じるかもしれません。でも、ここで考えてみたいのです。そもそも、罪の本質とは何だろうか。なぜ人は罪を犯すのだろうか。誰にも望み、希望、はっきり言えば欲望があり、それがすべて満たされればと願っています。そんなことはない、わたしは世のため、人のためにさえなれば自分はどうでもいいのだ、という方もおられるでしょう。しかし、イエス・キリストにおける神の愛に比すれば色あせてしまいます。イエス様は、ご自分を憎み、唾をする者を愛し、彼らのために死なれたのです。エレミヤ書17章9節に「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか」とあるように、また箴言7章20節に「善のみ行って罪を犯さないような人間は この地上にはいない」のです。そして、誰もすべてが思い通りにいかない不満をもち、それが敵意や争い、妬みと言った罪の実を結ぶのです。(これらと全く無縁な人はいません。)わたしたちは、ただイエス様にのみ完全な赦しを見ます。死んでもついていくと大見えを切りながら一目散に逃げだした弟子たち。自分もイエスの仲間としてとらえられるのだろうかと恐れ、神に懸けてイエスを知らないといった弟子たち。イエスは、彼らを赦しました。十字架にかけられたイエスをあざける人たちのために「彼らを赦してください。何をしているのか分からないのです」と祈ったイエスにのみ完全な赦しを見ます。そして、このイエス様がわたしたちの罪を赦してくださるのです。負い目を赦してくださるのです。ところで、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とありました。ルカによる福音書では、「わたしたちも自分に負い目のある人をみな赦しますから」とありました。これはどういうことなのでしょうか。わたしに、罪を犯した人を赦すことが条件で、わたしたちは赦されるということでしょうか。この答えはマタイの福音書18章21節から35節にあるようです。時間の関係で読むことができないので内容をお話ししますと、ある人が王様に莫大な負債を抱えていました。どうにも返すことができません。可愛そうに思った王様は、負債を全部なしにしてくれました。「あー、良かった。本当に助かった」と思ったでしょう。晴れ晴れして、王宮から家に帰るその道すがら、自分がいくばくかを貸していた人に会います。彼が借金を返すように言うと、相手はひれ伏して「もう少し待ってほしい、必ず返すから」と言います。しかし、彼はその人を引っ張って行って牢にぶち込んでしまったのです。そのことを聴いた王様は「不届きな家来だ。お前を憐れんでやったように、お前も憐れんでやるべきではなかったか」と言って借金を返し切るまでと牢に入れてしまったというお話しです。この負債は、罪を表しています。さて、この人は、何故仲間の借金を赦せなかったのでしょうか。自分が赦された、ということを本当には分かっていなかったからです。良かった、助かった、うまくいった、という程度でした。人の罪を赦すのは、自分がどれだけ赦されたかを知ることに比例します。そのことをイエス様は、「わたしたちも負い目を赦しました」と表現したのです。ですから、ここで言われているのはわたしたちが赦される条件として赦すことが求められているということではなく、イエス様がわたしの罪を赦してくださった、その為に十字架にかかり、苦しみ、死んでくださった、裁きを受けて下さったということを繰り返し自分に問い続け、味わい続ける。それが祈りとなるようにということなのです。わたしたちは、すべて神様の前に罪あるものです。そして、それは赦されなければなりません。トントンになるように善行を積むなどという事はまったくできないのです。赦されなければならない。そしてイエス・キリストの十字架のみ業の故に赦されているのです。そのことをしっかりと受け止めるとき新しい地平で生きることになります。相変わらず罪は犯します。しかし、そのたびにイエス様が罪を負ってくださったことに思いいたします。そして、そのイエスを礼拝します。日々赦され、赦しを味わうことは食べることと同じほどにあなたを存立させるのです。その時に、赦せない思い、それはあなたをとらえ、縛る思いなのですが、その思いを手放し、赦し、束縛から解放されることが始まるでしょう。

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