山上の説教(25) 主の祈り 5 マタイ 6:9-13

主の祈りの学び、今日は13節です。「わたしたちを誘惑に遭わせず、、悪い者から救ってください。」ルカの11章4節では、「わたしたちを誘惑に遭わせないで下さい」と書かれています。この御言葉から、わたしたちは主の祈りはそもそも生活の中で祈る祈りだということが分かります。と言いますか、わたしたちが本当にキリスト者として生活するならば、それは当然祈りの生活であるわけですが、そのように生きるならば必ず戦いがあるということです。誘惑に遭うのは信仰が成長していないからだ、成長すればだんだんと誘惑などに遭わなくなるのだというのではないのです。むしろ、成長すればするほど自分の罪の問題、その中に誘惑に負けそうになる、いや、しばしば負けてしまう弱さを知るということが含まれているということに気づきます。パウロで言えば、イエスを知る前は、自分は律法をきちっと守っている、立派なもんだ、などと思っていたのですが、晩年の言葉をテモテの手紙一1章15節に読みますと、自分を「罪人の中で最たるもの」と本当に思うようになるのです。まことに、わたしたちは誘惑に取り囲まれて生きています。文明社会とは誘惑社会と言ってもいいと思われもします。そもそも誘惑はどこから来るのでしょうか。二つの面からこの事を考えなければならないのですが、まず一つはわたしたちの心の中の問題です。わたしたちは、皆不満を持っています。創世記3章を読みますと、そこにはアダムとエバの物語があります。二人は、神様と約束していました。園の全ての木から食べてもいいが、善悪の木からは決して食べてはならないという約束です。しかし、ある時、それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となれるとそそのかされます。それこそ誘惑されるわけです。なぜ、その誘惑に負けたのか。それは、アダムとエバに不満があったからです。自分でも気づかない不満でした。しかし、誘惑者に神の言葉に逆らって食べれば自分が神のようになれるといわれ、それは素晴らしいと思ったのです。実は不満だったのです。あるいは、誘惑者によって不満を呼び起こされたのです。自分の思うように、何者にも束縛されず、邪魔されず生きたい。つまり、自分中心に生きたい、神になって生きたいと思ったのです。この事は、わたしたちに共通した思いであり、聖書はそれを罪という言葉で呼びます。不足感です。もっと、もっと、という思いでもあります。そのために、他の人のことは二番目、三番目になる。ちょっと気が引けるけれど、自分が損しないためには、得するためには犠牲になってもらっても仕方がない。そういうものです。しかし、すべての人がこの、罪の性質を持っているから、みんなが不足感をおぼえ、自分第一、自分ファーストであるから誰一人として完全に満足することなどできません。するとどうなるか、ガラテヤの信徒への手紙5章19節に言う肉の業に支配されてしまうのです。そこには、姦淫から酒宴まで15の肉の業が並べられています。まず自分自身の不足感から生まれる肉の業は何でしょうか。支配したいという願い、もっと強く、もっと大きくという思いであり、また、それをあきらめなければならない時の自己憐憫の心地よさです。姦淫、わいせつ、好色は、そのような支配欲から生まれてくる肉の業です。人を物として支配するのです。自分の下に征服するのです。物の不足感からはどうでしょうか。もっと持ちたい。でも、思うようにそれを手に入れられない時の肉の業は偶像礼拝であり魔術です。偶像礼拝とは、神ならぬものを神とすることを言いますが、要するに物を神にする、それが偶像礼拝です。魔術はどうして、と思われるかもしれませんが、魔術とは儀式とかまじないとか、何らかの方法で神を思うままに動かして望むものを手にしようとする方法です。祈りすらも魔術になりうることをすでに学びました。地位や評価の不足感からの肉の業が敵意や争い、嫉み、怒り、仲間争い、妬みであり、これらすべての不足感を紛らわそうとするものとして泥酔、酒宴があります。これはお酒を飲むのがすべて悪いということではなく、お酒の力を借りて不足感、不満をひと時忘れる、紛らわす行為を言っています。ですから、麻薬などの薬物を使ってということもあります。買い物をしまくってということも同じです。すべての嗜癖の背後にこの問題があります。さて、誘惑は避けられないものです。ですから、神の子であるイエスさまもわたしたちにご自身を重ねて40日サタンの誘惑を受けられました。誘惑は避けられない。だからこそ、「誘惑に遭わせることなく」と祈るのです。自分で誘惑に弱いことを知っているからです。ですから、「誘惑に遭わせることなく」という祈りは、全く誘惑を受けないように、誘惑フリーにしてくださいという祈りではなく、「悪い者から救ってください」、誘惑者であるサタンから救ってください、誘惑を受けるとき助け、支えて下さいという祈りなのです。誘惑の中での知恵を与えてくださいという祈りなのです。それはどういうことか。いつも祈りの力を信じることができるようにしてください。信じるから、誘惑に遭うとき祈りに駆け込むことができるようにしてくださいということです。その時に、自分を助ける神の御言葉を思い出させてくださいという祈りです。先ほど申しましたイエス様が誘惑、試みに遭われたときにも、神の御言葉をもって対抗しました。さて、ここで誘惑者、悪い者が登場しているわけですが、これは、わたしたちの不足感に付け込んで神から引き離そうとする者がいるということです。そのものをサタンと言います。ですから、誘惑との戦いはサタンとの戦いでもあるのです。サタンの誘惑にさらされるとき祈りに駆け込む。御言葉を盾とする。そのためには、聖書の言葉によく親しんでいる必要があります。暗記しておくのもいいでしょう。と同時に、あなたは孤独に、一人で戦っているのではない。聖霊なる神様が共にいてくださいます。ローマの信徒への手紙8章26節に「霊(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊(聖霊)自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」とある通りです。呻きをもってとりなしてくださるのです。心の底からあなたへの思いを絞り出して祈って下さるのです。そして、ヘブライ人への手紙4章15節にも励まされます。「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練(誘惑)に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」イエスが、恵みの座で待っていてくださるのです。そのお方に助けを求めることができるのです。そして、この御言葉は、わたしたちが誘惑に負けてしまったとき、残念ながら、そのような時がたくさんあるでしょうが、その時にも帰るべき場所を示しています。言い訳を並べるのでなく、誘惑に負けてしまったことを認め、悔い改めて、そして、わたしたちの弱さを知られるお方のいる恵みの座に近づくのです。その時に主は、わたしたちを清めてくださいます。あなたは転んだ。しかし立たせてくださいます。ヨハネの手紙一1章9節を読んで確認しいましょう。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。」

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