山上の説教(26) 澄んだ目 マタイ 6:22-24

今日の御言葉はマタイによる福音書とルカによる福音書に伝えられているイエスの言葉です。マタイを中心に読もうと思いますが、この聖句は後ろから読み解いていくとより分かりやすいと思います。闇、目が濁っている、あるいは目が悪い(口語訳)、そして目が澄んでいる、この順番です。「闇」という言葉はないではないかとおっしゃるでしょうが、最後のところを新改訳聖書では、「もしあなたの内にある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか」と訳しているのです。では、まず闇について考えてみましょう。あなたは、闇を知っているでしょうか。東京に住んでいると闇とは無縁です。しかし、都会を離れると全くの闇があります。光の逆です。光がない状態です。イエス様は「わたしは世の光である。私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」と言われました。つまり闇はイエスと無関係の世界であり、命の無い状態です。この闇、命の無い状態とは死の世界であり、死をもたらす罪の世界の事です。エフェソの信徒への手紙2章1節から3節、口語訳には、こうあります。「さて、あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、他の人々と同じく、生まれながらの怒りの子であった。」これが闇の世界です。死んでいた。もちろん体は生きています。しかし、神様の前に死んでいた。死んだ人とかかわりをもつことが出来ないように神様とかかわりのない所にいた。それは、どのようなことかと言いますとこの世のならわしに従って生きる生き方をしていた。この世のならわしとは、この世で当たり前であり、何の疑問も持たれないような哲学と言いますか、考え方の事です。それは比較によって成り立っている世界です。あの人より上か下か、大きいか小さいか、強いか弱いか。そして、上であり、大きく、強いのがいいのであって、そうでないのは悲しい事、さみしい事、そして価値の劣ることなのだという考え方です。その中で争うのです。上を目指して。弱肉強食なのです。ある人が、その方のご主人は幸福というものは誰かの犠牲の上に、誰かが不幸になる事によってのみ成り立つのだとおっしゃったそうです。それは、的を得ているのです。人のレベルでも国のレベルでも、見たくないけれども現実なのです。その考えに従い、すると肉の欲に従って日を過ごすようになります。自分の欲望、力志向、これにとらわれるようになります。すると怒りの子になります。自分の思いをすべてかなえて生きることなど出来ないですから。上には必ず上がいるもので、その人を見ると怒るのです。その人に対して、また自分に対して。それが闇の世界です。実は、わたしたちは、皆このような状態の中にいる、キリスト者もかつてはそうだった、とエフェソの信徒への手紙は言うのです。でも、希望はあります。マタイ4章15節には、イザヤの預言を引用して「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の影に住んでいる人々に光が上った。」とあります。そして、そのすぐ後、イエスの宣教について伝えられています。光であるイエス。そのイエスに頼る事によって、闇の中を歩む生き方から助けて下さいと願う時に救いは来るのです。次は、目が悪い人です。その人は全身が暗いとあります。この人の内側には光はあるのです。彼は、イエスを信じて救われてはいるのです。新しい生き方に生きることが出来るはずなのです。しかし、暗い。光はあるけれどもその光が生きてこない。なぜなら目が悪いからです。どういう事でしょうか。目とはなんですか。物を見て判断する、その入り口です。情報の入り口です。ですから、ぼやけると困るのです。私はメガネをはずすとぼんやり見えたり二重に見えたりします。目が悪いのです。よくメガネをどこに置いたか分からなくて探す事があります。妻に聞くと、すぐそばにあったりします。するとわたしは、目を近づけます。そして言います。「本当だ、ここにあった」何かあるのは分かっていましたが、メガネだと思わなかったのです。ぼやけていたり、二重に見えていたのです。心の目が悪いと同じ事が起こります。マタイの福音書6章24節に「神と富とに兼ね仕える事は出来ない」というイエスの言葉があります。神様に信頼する事と富に信頼することの絶対的な差が分からないのです。どちらにも頼りたくなる。二重に見えてしまうのです。マルコの8章を読むとイエスが盲人の目を開く奇跡が記録されています。でも、一発で開かれたのではない。最初盲人は、「人が見えます。木のようですが歩いているのが分かります」と言っています。ぼやけているのです。このようなことが信仰の世界で起こってしまっているのです。イエスの愛の内に浸る事、神の言葉によって生きることの素晴らしさがぼやけて見えてしまうのです。ロトという人がそうでした。神様を知っていたけれども主に信頼するよりもむしろ自分の目に良しと見える所を選びました。邪悪な街だけれど商売にはよさそうなところ、そこにいる方がいいと思えたのです。目が悪いと体も暗い。この体は肉体という事ではなく体をもって生きる生き方です。内に光、キリストを頂いているのに、その光が輝きださない矛盾した生き方です。それは、闇を歩む生き方ではありませんが喜びや平安がありません。最後に「目が澄んでいれば全身も明るい」。この人は、隠者ではありません。世の中に住んでいます。そして、世の中は、最初にお話ししたように闇の原理で動いています。そこで生きているのですが、そこの原理、富や力を第一の価値とする物の考え方に染まりません。なぜなら、彼は寄留者であることを知っているからです。彼の本国は別にあるのです。彼の希望は、神の国です。神の国は、実にあなた方の間にある、今、ここにあるとイエスはおっしゃいました。地上の、この世にあって、でも彼は神の国、神との交わりに喜びと平安を求め、見出す、その生き方に生きるのです。彼にも試練はあります。落胆することもあります。しかし、パウロはこう言います。コリントの信徒への手紙二4章16節から18節です。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」見えるもの、比較できるもの、点数をつけられるもの。富や力、権力、地位。それらは今、みんなに求められ、それがあれば安心、幸福、人に羨ましがられる、いろいろかもしれませんが、それは過ぎ去ります。今、安心とか幸福とか言いましたが、実は過ぎ去ることを知っているので本当の安心や幸福はもたらしません。見えないもの。愛、博愛、協力や助けの手をのべる事、感謝・・。それらは永遠に存続するものです。ここに目を注ぎ、ここに生きる時その人の全身は明るい、つまり輝いて生きることが出来るのです。ですから、わたしたちは、イエスを救い主とし、御言葉に導かれて判断し、そこに従おうとするのです。そして、もしあなたがそうしているならば内なる光が暗くならないように気をつけましょう。近くばかりを見ていると近視になるように、近く、世のことばかりを見ていると霊的に近視になり、ぼやけて見えるようになってしまいます。光の天使さえ装うサタンは、あなたにそうさせようとするでしょう。教会につながりなさい。教会生活を大切にしなさい。教会は人の集まり、罪びとの集まりですから不完全であり、問題も起こるでしょう。しかし、イエス様が教会で信仰生活をするように定められたのです。神様は、教会が不完全であることを誰よりも承知の上で、それでもエフェソの1章23節にあるように教会をキリストの体とし、全てにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場とされ、テモテへの手紙一3章15節にあるように、教会を「真理の柱であり土台」とされたのです。
闇の中にいた、と気づかれた方。どうか光であるイエスに来て下さい。闇の中にいたことを告白し、光の内を、イエスと共に生きたいと主に願って下さい。主は、その申し出を喜ばれてあなたに来て下さいます。光はあったけれど、イエスを信じてはいたけれども目が悪かった、主に従って歩もうという決断が不十分だったという方は、今その決断をしましょう。今日が救いの日、恵みの時、つまり神様とともに歩み始める日です。

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