山上の説教(27) 神の国と神の義を第一に  マタイ 6:25-34

6章1節からの流れをおさらいしますと、ユダヤの人々の信仰の土台である施し、祈り、断食を取り上げて、人の歓心を求めてするのではなく、神様の前に施し、祈り、断食をすべきこと、それが天に宝を積むということである事、そして、神と富、神と世の両方に仕えることは出来ないこと、だから正しい主人、神様を主としなさいという流れでした。その流れを受けて25節から34節のお話しが続きます。ここで取り上げられるのは思い悩むことです。口語訳聖書では思い煩い、新改訳聖書では心配と訳しています。思い悩むは、毎週日曜日そうなのですが、どのネクタイにしようか。スーツが紺色だから…、と思い悩むのです。結局私より優れたコーディネーターである妻の意見を求めたりするのです。思い煩うのは、これとは違います。ネクタイが買えるだろうかと心配する。これが思い煩いです。だから、思い煩いという言葉がいちばんぴったりくると思います。さて、人の歓心に自己承認を求めるのではなく、既にあなたをご自分のものとして大切にしてくださっている神様を主人にする。そうすれば一切悩みはなくなり、思い煩いとは無縁の生活ができるかというとそうではないのです。クリスチャンになれば心配と無縁になるかというとそんなことはないのです。神様は、わたしたちが弱い者であることをご存知です。神様を信じても不安になり、心配し、思い煩う者であることをご存知です。その思い煩いをイエスは取り上げて話を続けられます。イエスが祈りを教えて下さったとき、「誘惑に遭わせないで下さい」と祈るように教えてくださいましたが、その通り、わたしたちは誘惑に遭うのです。その一番わかりやすい分野は、やはり衣食住、日々の生活の必要でしょう。日々だけではなく、わたしたちは動物と違って将来を見る目を与えられているので老後の心配ということも出てきます。そんな心配に悩まされるわたしたちの目をイエスは空の鳥や野に咲く花に向けさせます。イエス様が、群衆に語ったのはどんな季節だったのでしょうか。わたしは、もしかしたら2月から3月ごろかもしれないな、などと想像しています。わたしがイスラエルを訪ねたのがその季節だったのですが、ガリラヤ地方で本当に見事に花が咲く季節です。また、一列になって空高く飛んでいく鳥の群れを見上げたのも思い出されます。イエス様は仰います。鳥や花は思い煩わない。しかし、思い煩いの原因がないのではない。ユダヤの地にも鳥を襲う猛禽がいます。雨が少なく、花が咲かない年もあります。しかし、そのような中で彼らはその日その日を神様に支えられて精いっぱい生きているではないか。鳥も花も神様が造られたもの。神様が大切にされているものだ。しかし、あなた方は神の似姿に造られた、被造物の中で最高のものではないか。神様が最も大切にされているものではないか。神の作品であり、高価で尊いものではないか。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神様は美しく装ってくださるのだ。まして、あなた方はなおさらのことではないか。イエス様は、どんな話し方をされたでしょうか。だんだんと口調も早く、わたしたちが神様の特別なものであるという思いに感動して声も大きくなっていったのではないかと思い巡らします。そしておっしゃいます。「思い悩むな」。「思い煩うな」。「心配するな」。神様は、食べる物や着るものが必要であること、あなた方の日々の必要をご存じなのだ。あなたを愛し、導き、支えて下さる神様に出会っていない人、主を知らない人は、それは不安だろう。だから、経済ファースト、衣食足りて何とか。まず、確保して。そう考えるのは当然だ。生活すべてを、経済を軸にして回すのは当然だ。しかし、あなたたちは神の民ではないか。だから何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。この言葉は、30節の「信仰の薄い者たちよ」というイエスの言葉と響き合います。つまり、神の国と神の義を求めるとは信仰に生きるということです。主に信頼し、祈り、導きを求め、罪を告白し、悔い改める。そこに生きなさいということです。そうするとき、必要なものはみな加えて与えられると約束されます。わたしは、理屈は知りません。どういうメカニズムで神の国と神の義ファーストにするときに必要が備えられるのか知りません。説明できません。イエスさまも説明なさいません。信仰の問題だからです。神様がおっしゃることであるからそうです。わたしは、言い争いません、議論しません。信頼します。アーメンです。神様が求められるのは、そういう信仰です。さて、「加えて与えられる」のは、天から降ってくるということではありません。仕事を通してです。人を通してです。だから、一日一日に苦労があります。その苦労の中で神様に信頼して生きるのです。「明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である」とは、そういう事なのです。コヘレトの言葉は、ソロモンが書いたとも言われますが、誰が書いたにせよイエスがおっしゃったことを自ら経験した人だということができます。彼も経済ファースト、レジャー・ファーストの人でした。しかし、そこに満足を見出せなかった彼の結論は、次の言葉です。12章13節です。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」わたしたちは、この神様ファースト、主に信頼して生きるということを真剣に考えようではありませんか。口先だけのことではなく、本当に主に信頼して日々の苦労を受け止め、でもそこで不安に圧倒されてしまうのではなく、もう一度主に信頼して生きてまいりましょう。その時に余裕が少し生まれます。我がものは主からのもの。だから、わたしが握りしめる必要はない。必要としている人と分かち合おう。ささげよう。神への信頼がなければ、そのような余裕は生まれません。使徒言行録20章35節を読むとイエスは、「受けるよりは与える方が幸いである」と語られました。ほんとかしらと思うかもしれない。しかし、今日聴きました言葉を照らし合わせるならばアーメンということができるのではないでしょうか。なぜ幸いなのか。与えることの出来る人は、主への信頼を生きているから。日々の苦労を独りでしょい込んで、今日は足りるかしら、明日はどうなるかしらと思い煩うのではなく、主が備えられることを知っているから。そこが幸いなのです。有り余るほどあるから与えられる。だから幸いということではないのです。もう一度、最後に申し上げます。主に信頼するということを真剣に受け止めましょう。そして、主への信頼に生きましょう。

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