山上の説教(28) 裁くな! マタイ 7:1-6

「人を裁くな」と聴きました。わたしたちは、なんと裁く者でしょうか。人を裁き、自分を裁き、神をも裁く。それが、わたしたちの姿ではないでしょうか。みんなが評論家のようになって「あの人はどうだ」、「この人はどうだ」と性格や行動を裁きます。人ばかりではなく自分も裁きます。「自分などいない方がいい」とまで思ったりします。神も裁きます。神様がおられるのに、どうしてこんなことが起こるのか。一体神は、どこで何をしておられるのか。裁きが崩壊をもたらすことを知っていながら、裁いてしまう。それが、わたしたちの姿なのではないかと思います。三浦綾子さんは、「家族は裁き合うことによって崩れる」と書きました。確かに裁きとは生産性がなく、切り捨てて、そこで終わりというものでしょう。しかし、イエス様はなぜ裁いてはならないのかという理由を挙げておられます。さらには、裁きに代わる解決を教えて下さっています。そのことを読み解いてまいりたいと思います。なぜ、裁いてはならないのか。「あなた方も裁かれないようにするためである」とおっしゃいます。なんで、わたしが裁かれるの、と思われるかもしれません。このイエスの言葉には、わたしたちはすべて裁かれるべきものである、ということが示唆されています。3節以降を読みますと、わたしたちの目の中に丸太があるではないか、それなのに「あなたの目からおが屑を取らせてください」などとは言えないではないか、とおっしゃいます。言うまでもなく丸太はおが屑に比較にならない大きなものです。わたしは、この人の目におが屑を見る。それを批判する。裁く。しかし、あなたの目にはおが屑どころではない、丸太があるではないか。それをそのままにして、人のおが屑を裁くのはおかしいではないか、とおっしゃるのです。イエス様は、何をおっしゃっているのだろうか。丸太とは何だろうか。わたしの怒りっぽさだろうか。優しくないことだろうか。それとも、何年か前にしたあの事だろうか。などと考えます。まず、丸太なのに気づかない。つまり、自分ではなかなか気づかない何かのことをイエス様は仰っているのだとわかります。丸太が目にあれば痛くてたまらないはずなのに痛くもありません。気づかないのです。イエスは何を丸太と言っているのだろうか。それは、わたしたちの罪そのものです。罪は、自分で見ることができません。たとえ見えても、それは大したことではないと思えてしまいます。聖霊なる神様に照らし出されて初めて見えるものです。聖霊だけが罪について、義について、裁きについて明らかにするのだとヨハネの福音書16章8節でイエス様は教えられました。罪を考えるとき、神への反逆とか、神への不従順とか、キリスト者であるならそれで罪が分かるかもしれませんが、そうでない人には、創世記4章に登場するレメクという男の言葉が一番理解しやすいのではないかと思うのです。彼は、妻たち、アダ、ツィラという二人の妻がいたのですが、彼女たちにこう言っています。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し 打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら レメクのためには七十七倍。」二人奥さんがいたのですからお金持ちだったのでしょう。財を築いたのでしょう。子どもたちも力ある人たちに育ちました。それはいいのですが、どのようにしてということを彼の言葉からうかがい知ることができます。傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺すといっています。本当にそういうことがあったのか、それとも、もし傷を負わされるようなことがあったら殺してしまうだろうといっているのかは不鮮明です。でも、自分が殺されそうになって、その時には正当防衛をするといっていることでないことは分かります。自分の欲しいもの、欲しい地位、何でも自分の欲望の実現を妨げる妨げるものは許さない。徹底的に排除する。そういう事です。もちろん、わたしたちは、レメクほどにむき出しにしません。そんなことをしたらそれこそ自分が排除されることを知っているからです。でも、よく考えるとこのような強者の論理と言いますか、それに同意するところがある。まず、自分が認められたい。まず、自分がとりたい。まず自分が、まず自分が。先日こんなことを聴きました。孫の話です。3歳になる上の子が積み木を重ねていたそうです。だんだん高くなっていきます。1歳の下の子は、いつもお姉ちゃんに遊び道具を取られて、多分普段から癪に触っています。近づいてきて、積み上がった積み木の下の方を手で払って崩してしまいました。お姉ちゃんは、「〇〇ちゃんが、〇〇ちゃんが」、その後は言葉にならず泣き叫びました。下の子は、お姉ちゃんがしているのを見てまねしたのでしょう。もう、意味が分かっているのかとびっくりするのですが、思いっきりアッカンベーをしたのです。二人とも、まず自分の欲しいものを確保したい。お姉ちゃんは、欲しいおもちゃで妹が遊んでいるとそれを取り上げ、ちゃんと他のもの、自分には不要のおもちゃをあげます。皆さんは、何を思うでしょうか。可愛いといえば可愛い。でも、小さな子供だから可愛いのであって、大人になってこんなことをしていたら、と思う。でも、もっと手の込んだ、見えにくい方法で、わたしたちは同じことをしているのではないだろうか。これが聖書が言う罪です。そして、イエス様は、「あなたの目には丸太があるではないか。あなたには罪があるではないか。まず、それを問題にしなさい。それを取り除きなさい。私ファーストから自由にしてあげよう。救いを受け取ってほしい。」そうおっしゃいます。そして、「そうすれば、人の目のおが屑もよく見えて、それを取り除くのを手伝ってあげられるではないか。『こんなおが屑を持って』と非難する思い、裁く心からではなく、『もっとよく見えるようになるよ』という心で手伝てあげることができるではないか。」そうおっしゃっているのです。つまり、この個所は救いへの招き、そして伝道への招きでもあるのです。丸太を目の中に持ちつつ人のおが屑をとがめる生活は、その人にとってもつらいものです。喜びのない生活です。イエス様は、あなたに今日語っています。「あなたの目に丸太があることを知りなさい。恥ずかしいことではない。それを無いことにすることが恥ずかしいことなのだ。わたしが、その丸太を取ってあげよう。」そして、罪を知り、認め、その罪を、罪の裁きをイエス様が十字架で受けて下さったことを信じるときあなたは丸太から解放されます。その時、あなたは人を裁くのではなく、助ける者となることができるのです。

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