山上の説教(29) 豚に真珠 マタイ 7:6

今日の聖書の言葉には、戸惑いを覚えるのではないでしょうか。すぐに思い浮かぶのは、「あんな奴にあげたって豚に真珠だよ」というような否定的な、そしてちょっと下品な感じでこの言葉を使うことです。この言葉が聖書からきていることを知らない方もたくさんおられることでしょう。一体イエス様は、何を語っておられるのか。何を伝えておられるのか。首をかしげたくなってしまいます。どこから読み解いてまいりましょうか。まず、「神聖なもの」、「真珠」とは何かということです。聖書は聖書によって読み解くという原則があります。マタイによる福音書13章45節に、イエス様が語られたたとえ話で、「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」とあります。ここでは、真珠がとても高価なものとされています。全財産と取り換えてもいいほどの物とされています。常識的に考えれば、どんなに高い、銀座の三木本真珠にある一番高いものでも、おそらくこの商人は手広く商売をしている資産家でしょうから全財産の方が価値はあると思うのですが、つまり、ここではわざと大げさな言い方をしてイエス様は何よりも優れた価値を真珠に託しているのです。とすれば、これは福音、救いにほかなりません。わたしたち教会に託されているよき知らせ、「救い主が来ましたよ。あなたは、イエスを信じることで罪を赦され、人としての尊厳を取り戻すことができますよ」というメッセージにほかなりません。まさに「聖なるもの」です。一方、犬や豚が登場しています。豚は、日本でもあまりいい意味に使われないようです。「豚みたいな人だ」と聞いたら、その人は素晴らしい人に違いないとは思いません。犬も同じです。わたしは犬好きなのでちょっと残念ですが、「権力の犬」という言葉がありますし、「上司の顔色ばかり見て、尻尾を振って犬みたいなやつだ」などと使われます。ユダヤの世界でも、やはりいいイメージではないのです。聖書でも例えばフィリピ人への手紙3章2節には「あの犬どもに注意しなさい・・割礼を持つ者たちを警戒しなさい」とありますし、ペテロの手紙二2章22節には「犬は、自分の吐いた物のところへ戻ってくる、また豚は、体を洗って、また、泥の中を転げまわる」とあります。さらには、黙示録22章15節には「犬のようなもの、魔術を使うもの、みだらなことをする者、人を殺すもの、偶像を拝むもの、すべて偽りを好み、また行う者」というようなことも言われています。なんとも散々なのですが、今読みましたところから犬、また豚がどのような意味で語られているのかが見えてきました。割礼を持つ者とは、日本ではなじまないといいますか、どのような人かわからないのが普通だと思うのですが、要するに自分の義を頼る人です。自分は正しいとする人です。以前、「自分はまっすぐで正しいのです」と言い切った人がいましたが、そのように自分の不完全さとか、聖書で言う罪の性質が全く見えなかったり認めない人を言います。また、自分の吐いた物のところに戻るとか、体を洗って、また泥の中を転げ回るというのは、イエスによる救いを信じて信仰生活を始めるのですが、やがてそれを捨て去ってしまう。マタイの13章ではいろいろな地に落ちた種のたとえ話が出てきますが、困難が起こって信仰に立つことをやめてしまったり、思い煩いや富の誘惑に負けて信仰から離れる人です。残念ながら、聖書の中にも出てきますのでいつの時代にもいるのです。そうしますと、イエス様がおっしゃったことを直接言い換えると「自分を正しいとして聞く耳を持たない人、救いなど必要ないという人に一生懸命イエス様を信じるように勧めなくていい。また、一度信仰をもって離れた人を何とかしてもう一度、と頑張らなくていい」ということになります。つまり、無理をするなということでしょうか。わたしたちは、まだイエスを知らない家族や友人のために熱烈に祈ります。信仰から離れてしまった、教会に来なくなってしまった人の信仰が回復することを熱心に望みます。もちろん、そうします。しかし、その人が聞く耳を持つこと、信仰が回復することは神の業なのだ、ということです。聖霊なる神様が働きかけ、それに応答するときに人は信じもし、回復もするのだ。あなたが自分の言葉で説き伏せるのではないのだ、ということです。イエスが弟子を伝道に遣わす時もそうでした。マタイの10章12節から15節です。「その家に入ったら、『平和があるように』とあいさつしなさい」とあります。そして、その平和、福音を受け入れるなら素晴らしい。でも、その後です。14節。「あなた方を迎え入れもせず、あなた方の言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出ていく時、足のほこりを払い落としなさい」とあるのです。福音を伝えなさい。でも、あなたが説き伏せるのではない。ということです。皆さんが、例えば食事の時お祈りをする。「何をしているのですか」と聞かれたとしましょうか。「わたしはキリストの父なる神に感謝しているのです」と答えるでしょう。笑われることもあるでしょう。イエスさまだって笑われたのですから。でも、それでいいではないか。あなたは、あなたのするべきことを十分にしたのだ。神様は、あなたのしたことを喜ばれているし、あなたを誇りを持っているよ。そういう事です。でも、わたしたちは一つのことを自分に問わなければなりません。自分は犬には、豚にはならないだろうか。自分を正しいとして、もちろん見下すというような露骨さはないかもしれないけれど人を下にすることはないだろうか。イエス・キリストを信じているはずなのに思い煩い、世にある物、ヨハネの手紙一2章15節にいう肉の欲、目の欲、生活のおごりに心惹かれることはないだろうか。「世も世にある欲も、過ぎ去ってい」くのを知っていながら、そこに心が留まってしまうことはないだろうか。今日の聖句は、実に私たち自身への問いかけであり、戒めでもあります。真珠を大切にしようではありませんか。福音を大切にしようではありませんか。そのことを、自分から始めようではありませんか。そして、福音に生きること、赦されて、尊厳を回復して神様の御前に生きることのすばらしさを一人でも多くの方にお分かちしようではありませんか。そして、わたしたちはいわば伝令であって、人がイエスを信じるところに導かれるのは、その人と聖霊の事柄であってわたしが説き伏せるのではないことを憶えましょう。ただ、伝えましょう。ただ、イエスに祈り、御言葉を聴いて歩みましょう。それが伝えることです。そして、もしあなたの信仰の希望について聞かれたならば、へりくだった思い出お伝えしましょう。そして、神様のお働きに期待しましょう。

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