山上の説教(30) 求めよ、探せ、たたけ マタイ 7:7-12

わたしたちは、どのような時に本当に求めるでしょうか。先ごろ、コロナ禍のなかで国民一人当たり一律10万円が国から支給されるということがありました。いろいろなレベルの「早く来ないかな」があったと思います。給料に影響のない人のそれは、それほど真剣なものではないでしょう。しかし、今日食べることに不安を憶えている人のそれは真剣そのものでしょう。今日のみ言葉の「求めなさい」は、そのような切羽詰まった祈りなのです。どん底からの祈りなのです。もう希望が見えない時、求めなさいと主は言われるのです。確かに、わたしたちが本当の意味で求めるのは底をついたときです。随分前ですが、ある市の教育委員会の嘱託カウンセラーとして中学校に派遣されていました。なかなか困った行動をする生徒さんがいる。大体相談の窓口はお母さんです。お父さんは、母親任せで出てきません。しかし、事がいよいよとなって切羽詰まるとお父さんが出てきます。真剣に解決を求めます。すると、事が動き出すのです。アルコール依存症の人も、いつでもやめようとすれば止められると思っている間は真剣になりません。しかし、このままではだめになると切羽つまって初めてAAに通うようになります。わたしたちは、切羽詰まらないと本当には求めないのかもしれません。主は、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、とおっしゃいました。真剣に求めるとは、祈ることです。どうか助けてください、道を拓いてください、与えてくださいと祈ることです。祈るというのは、天を見上げていて何かが落ちて来るのを待つように何もしないことではありません。探すというのは、毎日読む聖書の言葉に、周りの出来事や人の言葉に神様のヒント、指図、導きを見出そうとすることです。そして門をたたくことです。門をたたくとは、また祈ることです。わたしはこれを「祈りのサンドイッチ」と名付けました。列王記上18章41節から46節を見るとイスラエルの国に3年にわたって干ばつがありました。預言者であるエリヤはカルメル山の頂上で雨を降らせてくださるよう、神に祈りました。彼に仕えている人に、雲があるか海の方(地中海)を見なさいと言いますが、全く雲はありません。何度見させても雲は現れないのですが、七回目に見ると手のひらほどの小さな雲が海のかなたから上ってきます。エリヤは、それを見逃しませんでした。彼に敵対していた王様に大雨になるから早くお城に帰れと言います。果たして、激しい雨になったとあります。何も起こらない、とあきらめないで聖書の言葉に、あなたの周りの出来事に神様の御手の働きを探し続けなさい。掌の雲のような小さなしるしかもしれないが、必ず神様は祈りに応えて事をはじめてくださるから。そして、そこで「神様有難う、あとは私がやります」と言わないように。門をたたき続けるのです。さらに祈るのです。わたしたちの神は、すべての栄光をご自分のものにされます。最後まで導かれます。わたしたちが、自分でやったと誇らないためです。ここで、一つのことを確認しましょう。祈るということは信頼するということです。いや、信頼のない祈りは神様のおっしゃる祈りではないということです。これもやはり干ばつのお話。困り果てたお百姓さんたちが教会に集まって雨を与えてくださいと祈り会を開くことにしました。たくさんの人が集まりました。大人も子どもも集まりました。一人の少女が傘を持ってやってきたのです。人々は問うたそうです。「こんな天気なのに、何日も雨が降らないのになぜ傘を持ってきたの。」少女は答えました。「だって、神様に雨を降らせてくださいと祈るのでしょ」。この少女だけが信仰をもって、神様に信頼して祈ったのでした。神様への信頼がカギであることを確認しましょう。マタイの福音書17章20節には、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる」というイエス様の言葉が伝えられています。祈りの中に力があるのではありません。神様への信頼がポイントです。そして、感謝なことにイエスはからし種ほどの信仰、信頼でいいよとおっしゃってくださいました。からし種は本当に小さいのです。手のひらから落としたら、見つけることは困難でしょう。信頼して求めることに神様の約束が伴います。9節から、「あなたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか。このように、あなた方は悪いものでありながらも自分の子どもには良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は、求めるものによいものをくださるに違いない」とあります。聖書協会共同訳では、「下さる」と断定した翻訳になっており、こちらの方が正確です。どんなに意地悪な人でも自分の子どもは可愛い。大切だ。願いにこたえてあげたい。パンを頂戴と言っているのに石を与えるような親はいないではないか。まして、愛と恵みの神が良いものを下さらないことがあろうか。ここで、あなたが求めるものを下さらないことがあろうか、と言わないで良いものを下さらないことがあろうかとあることに注意したいと思います。イザヤ書55章8節、9節に「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道はあなたたちの道を わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」とあります。神様の知恵、神様の思いはわたしたちの有限な知恵、思いを超えているのです。だから、あなたの求めを超えた良いものを与え、想像を超えた良いことに導いてくださいます。自分を振り返ってもわかるのではないでしょうか。前にも述べたことがありますが、わたし自身、祈りが聞かれなくてよかったなと思うことがいくつもあります。これを、と祈ったことを超えてよいものを与えて下さった、良い道に導いてくださったことが何回もあったなと思います。皆さんも同じではないでしょうか。最後に12節に「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人に死なさい。これこそ律法と預言者である」とあります。何が「だから」なのだろう。前と繋がっていないように読めますが。でも、よく考えるとやはり「だから」なのです。神様があなたの祈りに応え、最善をしてくださる。あなたは、そのことを知っているではないか。だから、そのことを知る者としての生き方をしようではないか。あなたも、人の祈りの声を聞き取って、人の必要を見て取って、自分だったらこうしてほしいという、そのことをさせて頂きなさい。これこそ律法と預言者、つまり聖書に示された神様の御心を行うことなのだ。そう、イエス様は言われたのです。信仰とは、あなた一人で祈って、あなた一人でその答えを頂く恵みに与って終わりではありえないのです。信仰は自己完結ではありえないのです。「だから」。わたしたちは求め、探し、門をたたき、そこで終わりではなく、主の答えに感謝して終わりではなく、そこから「だから」に進むのです。

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