山上の説教(31) 狭い門から入れ マタイ 7:13-14

狭い門から入りなさい、と聴きました。皆さんは、狭い門と聞いて何を思い浮かべられたでしょうか。入学、入社の試験はしばしば「狭き門」と言われます。登竜門などという言葉もあります。門について言えば、「門下生になる」とも言いますね。いずれにしても入り口です。そこから新しい何かが始まる出発点です。その先どんな道を行くのかが決まる場所です。そして、どの門を入るのか、それを選ぶ場所、決断の場所です。このイエス様の話を聞いた人は、狭い門と広い門の前に立たされています。そして、狭い門から入りなさい、そう決めなさいとチャレンジを受けています。広い門は門だけでなく、その先も広々とした道が続き、そちらを選ぶ人が多い。しかし、行き先は滅びとなる道だとおっしゃいました。一方、狭い門の先の道は細く、見出す人が少ない、そちらを選ぶ人は少ない。しかし、命に通じる道だとおっしゃいました。そして、この時イエス様が話された記録、あるいは他の時に同じテーマで話された記録かもしれませんが、それがルカによる福音書の13章22節から30節に残されています。そちらを読むと、この狭い門はいつか閉ざされてしまうとおっしゃったようです。つまり、永遠に決断を延ばすことはできない。思いがけない時に閉ざされてしまうということです。それでは、この二つの門が示すところのことが何なのか、ご一緒に神様に聞きましょう。ここには二重のメッセージが込められていると思います。一つは終末的なメッセージ、もう一つは今生的なメッセージです。終末的というのは、つまりあなたが永遠をどこで過ごすかということです。肉体はいつか死ぬ。しかし、あなたという存在は、永遠に存在します。その永遠をどこで過ごすかを問いかけるメッセージです。今生的なメッセージとは、今生というのは仏教用語ですが、いちばんぴったりくると思うので使うのですが、今生とは、今生きている、このあり方、死ぬまでのことです。この二つに関するメッセージが込められています。まず、終末的なメッセージです。今申し上げましたように人は永遠に存在します。魂は、霊は永遠です。人は太古の昔から近代、そして現代にいたるまでみなそのことをどこかで知っています。ですから、どんな原始的な社会でも、また、その真逆の世界でも葬儀が営まれ、死者がまつられたりします。その永遠をどこで、どのように存在するかを決める、その決断が迫られています。広い門は多くの人が選ぶ。大勢でいれば安心。確かに人と違っていることは、特に私たち日本人は得意ではありません。不安に感じたりもします。しかし、その道はどこに至るのでしたでしょう。そう、滅びです。滅びとは無に帰することではありません。無に帰するのならのんきに暮らせばいいのかもしれません。滅びとは無に帰することではなく、わたしたちは意識あるものとしてあり続けるけれども神様の愛からも恵みからも切り離された状態、お互いにむさぼりあい、奪い合い、そして決して満たされない状態、それが滅びです。もう救いがない世界です。仏教でいえば阿修羅の世界であり、餓鬼畜生の世界です。狭い門の先はこの逆です。命に至る道です。罪の存在から解放され、救いは完成し、わたしたちは神の民、神はわたしたちの神としてそこにおられる。お互いに愛し合い、支え合い、共に神様を喜び賛美する世界。それが命です。9月3日、神学校時代の友人がコロナ・ウイルスのために亡くなりました。同じ学生寮の隣同士であり、1986年にメキシコを訪ねた時には教会訪問とメッセージのスケジュールを立ててくれた友です。飛行機のトラブルでメキシコ・シティー到着が夜中の0時を回ってしまったのに笑顔で迎えに来てくれた人です。残念でなりません。しかし、彼は今どこにいるかを知っています。彼は狭い道を選び、細い道を行きました。そして今、さらに永遠に神様と共にいる。主を喜んでいる。救いを感謝して永遠にそこにいるのです。二重のメッセージと言いました。二番目は今生的メッセージです。イエス様は、ただ死んだら天国に行けるよ、みたいなことをおっしゃったのではありません。その神様と共にいることの前味を、今、この人生で味わえるとおっしゃいました。また、味わいなさいとおっしゃいました。どのように味わうのか。それは、あなたが自分を生きるというあり方によってです。神様があなたを造られた本来のあなたを生きることができることによってです。狭い門から入るなら、その生を生きることができます。広い門はその逆です。本来のあなた、神の作品としてのあなたではなく、世の評価基準で生きる生き方です。それを「滅び」と、イエス様は、かなり強烈な言葉で語られました。滅びの人生は世の評価基準で生きる生き方と申しました。偶像集めの人生です。いや、偶像など集めていませんよとおっしゃるでしょう。しかし、資格を集め、物金を集め、経験を集め、それら事態は全然悪くない、むしろ好ましいものですが、それにたよる時に偶像になるのです。そして、偶像を集めるとき、その本来よきものがあなたを支配するものになります。偶像は、あなたの神になるのです。本来神なんかじゃないのに。なぜ、人は広い門を選びがちなのだろうか。それは、広い門には「あなたもなかなかのものだよ」とか、「なかなかのものになれるよ」と。また、「あなたは罪びとなんかじゃない。いや、そういうところもあるかもしれないが人と比べれば大したことじゃないし、努力すればもっと自分を立派なものに出来るよ」と書いてあるからです。つまり、わたしたちは自分の力を信じたいのです。神様の前には無力で、罪深く、赦してもらわなければならない、導いてもらわなければならないなどと認めたくないのです。それがなかなかできない、だから狭い門なのです。先ほどお話ししたメキシコ人の友。神学生の時に聞いたことがあります。メキシコはカトリックの国だから、みなそれなりの信仰を持っているのかと思っていました。でも、赤ちゃんの時に洗礼を受けただけで、自分で信じることとは別だと話してくれました。彼はアルコールにおぼれていたそうです。何度も死のうとしたそうです。頑張っても思うような自分になれず、自分は無価値で、役に立たず、むなしくて、はかなくて、人生の目的など何もなく生きる意味もないと思っていたそうです。しかし、そんな彼が福音に触れた時、自分は決して偶然に生まれたのではなく神様の計画の中で、神様の時に、神様が決められた国に、神様が送り出してくださったこと。世の評価基準ではない、神様の喜ばれる生き方、自分自身の生き方をすればいいのだと示されて本当にうれしかったそうです。狭い門を選びました。細いかもしれないけれど、“自分ならでは”を生きる道を歩み始めました。あなたも主の前に祈りをもって自分は何が出来るのか、何がしたいのかを問い、それをもって神様に仕えてください。それが、命に至る道です。彼は、若く天に召されました。おそらく60歳くらいだと思います。しかし、イエス様に出会ってから楽しかったと思います。今日、イエス様は決断を迫ります。いや、毎週メッセージを通して決断を迫るのでしょう。それならば、今日も決断を迫るといった方がいいでしょう。そして、毎週皆さんは決断をしているのです。いや、何も決断などしていないとおっしゃるかもしれませんが、それならば決断しないということを決めているのです。でも、もしかしたらそれは危険なことです。パウロがアテネで神様のことを伝えた時、「それについては、いずれまた聞かせてもらう事にしよう」と言ったと伝えられています。彼らの人生だけでなく永遠を決めるメッセージが語られたのに、またにしようと決断したのです。そして、その“また”は永遠に来ませんでした。今日も、皆さんは決断の門の前に立っています。狭い門と広い門です。ぜひ、狭い門を選んでください。命に至る道を歩んでください。神様の祝福がありますように。

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