山上の説教(32) 偽預言者に注意! マタイ 7:15-23

長く読み続けてきました山上の説教もいよいよ終わり近くになりました。24節以降は、いわば締めの言葉になりますのでイエス様の説教のメインの部分の最期のところを読むことになります。その、最後の部分で主が偽預言者について語られているというのも意味のあることだと思います。今日のお話を始めるにあたり、予言と預言の違いから始めたいと思います。予約の予、予想の予の予言と預かるという字の預言の違いです。普通“よげん”と聞くと将来のことを言い当てることだと思われると思います。これは予言ですね。来年の東京オリンピックは開催できる、出来ない。これは、予言です。占い師があなたは将来成功しますよという、これも予言です。そうなるかもしれません、ならないかもしれません。実際には、ほとんど当たらないそうです。ジーン・ディクソンはケネディー大統領の暗殺を予言したとして有名になり彼女は大いに持ち上げられました。でも、それ以外はほとんど外れだったそうです。そして、いくつか当たったけどほとんど当たらないということを無視して報道する傾向をジーン・ディクソン効果というそうです。聖書の中に将来を言い当てるという意味での予言はありません。一方預言は字の通り言葉を預かるという意味です。誰かの言葉を託されて、それをその通りに伝えるのが預言であり、その役割を担うよう神様に指名されたのが預言者です。ですから、旧約聖書に登場するイザヤやエレミヤなどだけでなく、今の時代の説教者も預言者ということができます。いわゆる教職者でない教会メンバーがメッセージするときも、それは預言者です。自分の考えを発表しているのではなく、神様の言葉を伝え、宣言しているからです。預言の中には確かに将来起こることを告げる言葉もあります。しかし、それは必ず成る神様の計画を告げる言葉であり、だから必ず実現する言葉です。神様は、そのような預言者を、時代を通じて起こされました。旧約聖書に預言者がたくさん出てくるのはご存知の通りです。イザヤやエレミヤ、ホセアやアモスなど、いくつかの名前が皆さんの心に浮かぶことと思います。彼らは、悔い改めを宣べ伝えました。神様から託された言葉です。当時は、政治家や官僚は不正をなして言いくるめて逃げ、持てる者に富が集中し、一方何も持つことの出来ない人がたくさんいる格差社会、ちょうど今みたいな時代です。外交的にも神様にたよるなど夢物語だとしてどこの国と同盟を組めばいいか、そんな議論ばかりがされていました。彼らは、人気のないメッセージでしたが神様からの真実の言葉を伝えたのです。ゼデキヤ王の時代、イスラエルはバビロニア帝国の脅威にさらされていました。エレミヤは、それがイスラエルの不信仰によること、いまはバビロンに降るべきこと、それでも神様は憐れんでくださることを伝えました。一方、偽預言者も登場しました。ハナンヤという人です。「イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」と預言します。人々は、こちらの方を信じました。しかし、事実はエレミヤの預言の通りになったのです。神様は、彼らについてエレミヤ書6章14節で「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに『平和、平和』と言う」とおっしゃっています。テモテへの手紙二4章3節には、「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は自分に都合の良いことを聞こうと好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります」と警告します。そして、それだからこそ2節で「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。咎め、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」と教会に語りかけます。人気がなくても真理を語りなさいと命じます。さて、偽預言者とはどのような人でしょうか。いかにも偽預言者とすぐにわかるのでしょうか。まず、マタイ7章22節を見ると、彼らは神の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行ったと主張しています。人を癒すし、勇気づけるし、病をいやすし・・、華々しい奇跡もするのです。わたしたちは、たくさんの人を引き付けているから、その人によって力が与えられ、癒されているからと言うだけで判断できないことが分かります。ただ、分かるのは、この人たちは「御名によって」とは言っていますが、自分がこれだけのことをしたと自分自身にスポットライトを当てていることは分かります。イエス様の時代のパリサイ派の人たちがそうでした。自分は施しをし、祈りをし、断食をしている。しかし、それは神様の前に悔い改め、自分がただ恵みによってある者だからというのではありませんでした。また、十字架の軽視ということもできると思います。癒された、元気を与えた、立ち直った。それはそれで素晴らしい。でも、それの土台となる神様のところに帰り、主に癒され、主によって立たされる。つまり、わたしを愛して下さって罪を引き受け、裁きを受けて下さった主よ!と言う視点が甘い。十字架を語らない説教者、罪を語らない説教者は危険な、危険な偽預言者です。それから偽預言者の特徴として真理への畏敬がないということが挙げられると思います。「真理への畏敬」と言う言葉は私の言葉ではなく、1960-70年代に活躍された大塚久雄氏の言葉です。一言で言うと、なんでもOK。そういう考え方もありますね、そういう信仰もありますねと言って自分はこう信じるということを明らかにしない。あるいは、自分の信じるところはない。真理は一つです。でも、わたしたちは自分が真理を知っていると断定することはできない。だから、色々な人の聖書の読み方に聞く必要があります。しかし、どんな読み方もOKということだったら真理はないか、あるいはいくつもあるということになってしまいます。口語訳第一コリント11章19節には、「たしかに、あなた方の中で本当の者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい」とあります。分派自体が悪ではないのです。ただ、大塚先生はフェアーな議論をせずに相手を言いくるめようとするのを政治の世界でも、わたしたちの生活でもよく目にする。そして、それは暴力そのものだと厳しく断罪しておられます。そのほか、偽預言者は形式主義者であることもよくあります。クリスチャンは酒を飲むべきではない、タバコを吸うべきではない、ミニスカートをはくべきではない、ダンスはすべきではない…。すべからずを無限に作って、それを守っている人は霊的な人、そうでないと後ろ指をさす。健康に良くないと思えば控えるべきでしょう。誘惑が多い場所かもと思えば近づかなければいいでしょう。しかし、クリスチャン生活をべき、べからず集にしてしまったらアウトです。コリントの信徒への手紙一11章31節に「あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とある通りです。そして、何が栄光を現すのか、現さないのかは聖書をもって教会で学ぶでしょう。しかし、信仰生活の枠組みとしてあまりに細かい規則のようなものを作る時にそれを守ることが信仰生活になってしまって主にある喜びがどこかに行ってしまうのを避けるべきだと思うのです。真の預言者は、この逆です。自分にではなくイエス・キリストのすばらしさを喜び、語り、イエス様にスポットを当てます。昔、元すれすれやくざでアルコール依存症、そのころはアル中と言っていましたが、その方が救われて昔アル中今“みこ”中と言っていました。御言葉中毒という意味です。中毒がいいたとえかどうかわかりませんが、御言葉なし生きられないということを伝えたかったのでしょう。御言葉が土台、そして、御言葉の土台の土台は天地創造でもなく、イスラエルの歴史でもなく、祝福を受けることでもなく、イエスキリスト‼ 当たり前に自分が神、自分が中心と生きていたことを悔い改め、イエスさまと共に生きよう。人生の方向を変えよう、イエス様の方に!これです。預言者のメッセージ、預言者の生き方は。わたしたちは預言者です。預言者として生きましょう。と同時に、預言者も偽預言者にしようとサタンは働きます。サタンは、実にイエス様すら偽預言者にしようと荒野で40日間誘惑したではありませんか。だから、気を付けましょう。羊は群れから離れたすぐに危険にさらされます。教会と言う群れでともに祈りあい、信仰生活をしましょう。コロナでなかなか会えない時、でもLineやメールという手段が備えられました。「どうしてる」、「元気」と声を掛け合いながら歩みましょう。

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