山上の説教(33) 人生の土台 マタイ 7:24-28

山上の説教と呼ばれる5章から7章を読み続けてまいりましたが、いよいよ今回が最終回です。33回に渡ってメッセージをしてまいりましたが、まだまだ語りつくせない思いがあります。今日は、24節から読みたいと思います。全体の結論となる部分です。イエス様は、たとえ話をしてメッセージを閉じられます。家を建てた二人の人のお話しです。家を建てるというのは人生の一大事業です。今は、そのようなことはないかもしれませんが、わたしがサラリーマンをしていた40年近く前は、課長くらいになると家を建てるでしょうか、すると部下であるわたしたちを招いてくださってお祝いをしたりしたものでした。また、最近は液状化現象などということを聞きますが、どんな地盤なのかということも大切なのだなと思ったりいたします。イエス様のたとえ話に登場する二人の人も家を建てます。一人は岩の上に、もう一人は砂の上に立てたとあります。砂と申しましても本当の砂ではなく、弱い地盤ということなのでしょう。二人がどんな家を建てたのかは語られていません。もしかしたら、砂の上に立っている家は大きく、設計もしゃれていて、何よりも頑丈。人々があんな家に住みたいと憧れるようなものだったかもしれません。一方、岩の上の家は予算に限りがあったのでしょうか、並みの設計で2DK位だったかもしれません。こちらの方は、あまり人の目を引かないようです。とかく人は、上物の方に関心を払いがちですね。いよいよ入居ということで新しい家での生活が始まりました。私も昔、新しい家に引っ越した時、小学生だった息子が自分なのでしょう、「わーい、わーい」と男の子が家の横で喜んでいる絵を描いたのを思い出します。それこそ友達を招いてバーベキューをしたり、一日の仕事を終えて帰宅すればまさに安らぎの場。そんな日が続きました。岩の上の家と軟弱な地盤の上の家、二軒の家でもそんな平穏な日々が続いた事でしょう。ところが、ある時、今で言えばゲリラ豪雨でしょうか、経験したことのないような雨が降り、あっという間に川は増水して水があふれ、突風も吹く。とんでもない災害に見舞われたのです。人々はあの、小さいほうの家は大丈夫だろうかと心配しました。一方、大きい方の家は鉄骨も使っているし頑丈だから大丈夫だろうと思っていました。しかし、結果は逆だったのです。大きくて立派な、人々が憧れた家が倒壊してしまったのです。一方、もう一つの家も被害が出ましたが倒れることはありませんでした。どうしてこんな違いが出たのでしょう。その通り。地盤が、土台が違っていたからです。一つは岩の上に、そこに杭を打ち込んで家が動かないように造っていました。人の目につかない部分ですが、ここで手抜きをしなかったのです。もう一軒は砂の上でしたね。土台となる部分が流されてしまってはどんな頑丈な家も建っていることができません。天候が収まった後、人々は唖然として二軒を見比べた事でしょう。イエス様は何を伝えようとしたのでしょうか。この家は、地盤は、そして雨風は何を表しているのでしょうか。わたしたちは皆、それぞれ家を建てます。もちろん、この場合の家は建物としての家を言っているのではありません。人生という建物、人生設計のことです。まず、ほとんどの人はより豊かに暮らしたいと思うでしょう。そのために学び、交友関係を築き、経験を積み、それこそ家を建て・・。ある人は、経済的に豊かで、いわゆる恵まれた人生を歩みます。でも、なかなか思うようにいかない人もいますね。それは現実です。でも、もう一つの避けることの出来ない現実があります。必ず雨が降り、川があふれ、風が吹くような出来事があるということです。まさか、と思うことが起きるということです。試練といってもいいでしょう。身体的な試練がやってくるかもしれません。病気になったり、怪我をして障がいを負ったりするかもしれません。経済的な試練かもしれません。会社が倒産してしまったり、思いがけない多額の出費を強いられたり。また心情的な試練もあるでしょう。ミドル・エイジ・クライシスという言葉がありました。希望に燃えている若き日が過ぎて、ある年齢になると思う通りになりそうもない、先が見えてくる、そこで鬱っぽくなったりすることだそうです。あるいは、それこそ比較競争社会の中でもまれて自分の価値を見失ったり、仕事が細分化される中で自らの仕事に喜びと意義を見出せなかったり、マックス・ウェバーという人は資本主義が進むとそのようなことが起きると予言していましたがまさにその通りになっているようです。いや、社会に出る前からとにかく数字で評価される。点数が、偏差値がと、それがその人そのものであるかのように見られる。そのような中で心は荒み、自分を見失うことになりかねません。そんな雨風は誰にでも必ず来るのです。その時こそ、土台が問われる時です。順風満帆の時は上物だけが見えているでしょう。しかし、土台が問われるときが来るのです。あなたの土台は砂か、岩か。砂とは何か。岩とは何か。砂とは、すなわち人の評価、世の基準です。そこに焦点を合わせて家を建てるなら、いざという時もろい。うっかりすると修理が利かないほどに倒壊してしまうかもしれないとイエス様は警告なさいます。一方土台の上の家はどうだったか。やはり被害を受けます。ひどい被害かもしれない。しかし、倒れてしまうことはない。大修理が必要かもしれない。しかし、倒れてしまうことはないのです。詩編37編23、24節にこんな言葉があります。「主は人の一歩一歩を定め 御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」まさかの試練はやってくるけれども打ち捨てられることはないとあります。主がその手をとらえていてくださるとあります。なぜか。彼は主の御旨にかなう道を歩んだからです。主の御旨は、あなたが主のお大切であり、高価で尊いものであり、あなたをあがなうために主が自らの命を投げ出したほどだということ、そこに自分の価値と意味を打ち立てた、そこを土台としていたからだということです。イザヤも40章30,31節で証しします。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」皆さんは、ケンタッキー・フライドチキンをご存知でしょう。カーネル・サンダースという人が起こしたフランチャイズチェーンです。彼は、こんなことを言っています。「何をするにしろ、神様が味方してくれないようなやり方をして、うまくいくはずがない。ビジネスにしても、神様が応援してくれないようなものが成功するはずがない。・・・どんなに苦しいときでも神様に敬意をもつことを忘れずに生きていれば、必ず神様が救いの手を差し伸べてくれる。」彼の経歴は、まさに雨風洪水の連続でした。こんな感じです。40以上の職を転々とする。ガソリンスタンドを経営するが、倒産。うつ病の真っ只中、レストランをオープンするが、火災に見舞われる。レストランを再建設するが、道路事情が変わり人が来なくなり多額の借金を背負う。フライドチキンの秘密のレシピを売るために車でアメリカを走り回るが、1009回断られる。そして、ケンタッキー・フライドチキン・コーポレーションを創業しましたが、圧力釜を用いて現在に近い味になったのが49歳の頃で、一度65歳頃に無一文になった後、70歳の頃に大成功を収めた。77歳でクリスチャンとして献身。晩年生涯をキリストにささげる。わたしは、彼は若いころからクリスチャンなのだと思っていました。しかし、事実は晩年になってから。クリスチャンとして過ごしたのは13年だけなのですね。雨風洪水を経験し、その中で神様に出会い、岩を土台とすることを学び、そのようにした。その時、彼は感謝したのです。捨てるようなものは一つもなかった。一つ一つの失敗が、正しい土台の上に人生を、事業を築けと教えてくれ、導いてくれたのだと。彼の経験は、遅すぎるということはない。いつでも、そこから土台を定めて出発できることを証しています。皆さんはどこに住んでいますか。どんな土台、地盤の上に家を建てていますか。もしも、砂の上だと主に示されたら引っ越しをなさいませんか。イエスを信じ、神様と共に歩む人生をはじめませんか。

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