平安をもたらす生き方 ローマ 8:1-17

今日は、ローマの信徒への手紙8章から神様に聴きたいと思います。心がとまる言葉がたくさんあります。その中で、四節にあります「霊に従って歩む」という言葉に焦点を合わせてみたいと思います。霊に従って歩むとはどのような事なのでしょうか。ここで霊とは聖霊の事です。ですから、神様に従って歩むとはどのような事かと問いかけても同じ事になります。あなたは霊に従って、あるいは神様に従って歩んでいますか、と問いかけられたら何と答えるでしょうか。はい、もちろん従っていますと答えるのは少し気が引けるでしょうか。あるいは、いや、残念ながら全く従っていないと答えるでしょうか。その中間でしょうか。しかし、パウロはここで「霊に従って歩む私たち」と言っています。まだ会ったことのないローマの信徒への手紙の中の言葉です。彼らがどんな生活をしているのか、その中でどんな信仰生活をしているのか知らない人たちです。分かっているのは、彼らがイエス・キリストを救い主と信じた人たちだという事だけです。それなのに、パウロはためらう事もなく「霊に従って歩む私たち」と言っています。自分も、ローマの信徒たちも霊に従って歩んでいる者なのだという事です。どうしてそう言い切る事が出来るのか。そもそも、霊に従うとはどういう意味なのかと思います。先ほど、従っているかと問われたらハイというには気が引けたり、全く従っていないな、と思う方もいるでしょうかとお尋ねしましたが、そのように思う方は、ここで従うとは100%従う事だと思われたのだと思います。特に5節に「肉に従って歩む者は、肉に属する事を考え、霊に従って歩む者は、霊に属する事を考えます」とあるのを読んで、自分はしばしば肉に属する事、つまり経済的な保証であるとか自分の望みがかなう事とか、平たく言えばもっと持ちたい、もっと出世したい、もっと一目置かれたいというような事をしばしば考える事があるから霊ではなく肉に従って歩む者、霊に従っていない者だと考えたのではないでしょうか。一つの例をあげましょう。小さい子どもが両親に連れられてモールに買い物に行きます。お父さんのビジネスシューズとお母さんのハンドバックを買いに来たのですが、子どもはおもちゃ屋さんを見つけてはそちらに気を引かれ、美味しそうなケーキ屋さんがあるとそこで立ち止まってショー・ウインドを眺めています。とうとうお父さんとお母さんは先に行って、見失ってしまいました。不安になって大きな声で呼ぶとお母さんがここにいるよと手招きしてくれます。ご両親は彼を見失ってはいなかったのです。さて、この子は両親に従って歩いていたのでしょうか。答えは、ハイです。確かにあちら、こちらのと自分に関心がある物、欲しい物に目を奪われていましたが、両親についていこうとはいつも思っていました。おもちゃやお菓子のためなら両親を見失い、永久に離れ離れになっても良いとは一度も思わなかったはずです。私たちも、しばしば肉に属する事に心引かれます。そちらに目が釘付けになってしまう事もあります。しかし、それでも神様から離れようとは思わないはずです。それであれば、あなたは神の霊に従う者なのです。逆に言うと、肉に属する事の方が第一で、時々神様の方を向く。最終的には神様よりも肉に属する事を優先するつもりであるならば肉に属する者です。皆さん方は、イエス様を救い主と信じた方々です。先日救いの証しをして下さった方が信仰告白でおっしゃったように救い主であるばかりでなく人生の主としよう、従って行こうと決心されたわけです。ですから、その方は、そして私たちは霊に従って歩む者なのです。さて、肉に従って歩むという事、肉の思いという事についてもう一つ申し上げたいと思います。世の中は、肉に従って、肉の思いによって動いています。それは、政治の世界を見るととてもよく分かるように思います。選挙の時、いろいろな事が争点になります。憲法の事や外交の事などです。でも、選挙民の一番の関心事はいつでも経済です。どんな立派な憲法観を持っていても、どんなに優れた外交戦略を持っていても、経済をどうしてくれるの、これが結果を決定します。そして、それは個人の日々の生活の中で一番の関心事は経済の事、収入の事であることを物語っています。聖書は、経済はどうでもいいとは言いません。しかし、第一の事ではないと明言しています。マタイの福音書6章33節に伝えられるイエス様の言葉を見ますと、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。この前の所を読みますと、これらのものとは食べるもの、着るもの、つまり経済生活の事だと分かります。それらは無用なのではない。でも、もっと大切なもの、第一にすべきものがある。それは神の国と神の義だ。第一にすべきものを第一として御覧なさい。そうすれば、そのような日常の必要は添えて与えられるのだ。それが神様の約束なのだ、そうおっしゃったのです。それでは神の国と神の義とは何だろうか。愛です。神様を愛し、自分を愛するように人を愛しなさい。自分が少しでも多く、チャンスをとらえてたくさん得ようと心を砕くよりも人と分かち合い、仕えて御覧なさいという事です。先日、フェイスブックを見ていたら日野原先生の事が出ていました。World Economic Forumというところが紹介していました。英語で書かれた英語圏の人向けのものです。表題は、「健康な生活の6の秘訣」とありました。出来るだけ長く現役でいる事、体重に気を付ける事、楽しむ事、分かち合う事、物に執着しない事、そしてエレベータなどを使わずに階段を上る事の六つでした。特に分かち合う事、物に執着しない事は肉の思いにとらわれない事という事だと思います。それが健康な生活の秘訣だというのです。肉体の健康と同時に精神的、霊的な健康の秘訣なのだと思います。肉の必要は神様にお任せする事が出来るし、そうするべきなのだ。むしろ私たちは、愛と優しさと、分かち合う事、仕える事に思いを向けるものなのだという事を確認したいと思います。そして、それらに思いを向ける時に神様との平和がある。神様と歩調があっているという事です。また、神様に喜んで頂く事が出来るのだと7節8節を読む事が出来ます。そして、もうひとつ、霊に従う私たちは復活の希望を持っていると11節にあります。この復活には二つの意味があります。第一には、もちろん死後の復活です。イエス様が死んで、葬られて、甦られたように私たちも甦るというのが神様の計画です。パウロはコリントの信徒への手紙一15章で論じています。当時、復活はないのではないかというキリスト者がいました。しかし、そもそも復活がないのならばイエス信仰が成り立たない。そうだったら「あなたがたの信仰は空しく、・・今もなお罪の中にあることになります」と16節にあります。むしろ「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という事になると32節にあります。つまり、肉に生きようではないかという事です。しかし、事実は、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられる。死ぬべきものが死なないものを着る事になると53節、54節にあります。もうひとつ、死後の復活とともに人生における復活が約束されています。ローマの信徒への手紙8章18節以降を読みますと、ここもまだ復活を基調として話しが続いているのですが、28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、私たちは知っています」とあります。何とも情けない事、辛い事、もうだめかと思われるような事が起こるのが人生。しかし、絶望してはならない。それらの事からの復活があるのだ。相働いて益となる。その、困難や苦難から復活するというみ言葉です。イエス様も、弟子たちへの最後の言葉の中で「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」とおっしゃいました。ヨハネによる福音書16章33節です。既に世に勝っているとは、復活を見据えての言葉です。勇気を出しなさい。なぜならあなたがたは私の復活にあやかる者(ローマの信徒への手紙6章5節で聞いた言葉)ではないか。私が共にいるではないか。そう主が語りかけて下さっています。私たちは、自分の力や修行によってではなく主によって霊に従って歩む者として頂いたのです。だから、肉の思いを持つ事はあってもそこにとどまる必要はないのです。そこにとどまる時には心配と不安がわいてきます。神様と敵対する領域だからです。でも、私たちはもうその領域、肉の支配下にいません。恵みの領域にいるのであり、霊に従う者です。だから、本来目を向けるべきもの、思いを向けるべきものである愛、優しさ、分かち合う事、奉仕する事に思いを向けましょう。聖霊の助けによってそうしましょう。

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