復活 歩み 希望 コロサイ 3:1-4

今日はイースターです。既に、朝の6時半から多摩ニュータウン地区の七つの教会の方々とともに主に礼拝をささげる恵みに預かりました。なぜ、世界中でこの日にイースターが世界中でお祝いされるのか、何を祝っているのかと申しますと、言うまでもなく十字架にかかられた主イエスが三日目に復活された、そのことを祝っています。私たちが何かをお祝いするという時には、その出来事が何か自分と関係があるからお祝いするものです。例えばお誕生日をお祝いする時、自分自身か、あるいは自分と非常に近い関係にある人のためにお祝いします。アメリカでは7月4日を独立記念日として祝いますが、それは勿論アメリカ人にとっては自分の国がイギリスの支配から脱して独立した意味ある日だからです。でも、私たち日本人にとっては、歴史の教科書でアメリカの独立について学んだかもしれないなと思うぐらいであまり意味のある日ではありません。あるいは、クリスマスを考えてみましょう。キリスト者にとっては、自分の救い主がお生まれになったとても意義のある出来事を想起する日です。でも、ある人にとっては恋人とデートする日、プレゼントを交換する日、お父さんが早く帰ってきて子どもたちとケーキを食べる人いった具合で本来の意味はどうでもいい事です。あなたにとって、イースターはどうでしょうか。クリスマスのように一般的な行事になっていませんから、全く知らなかったという方もいるでしょう。知ってはいたけれども自分と関係ないという方もおられるでしょう。あなたにとってはどうでしょうか。キリスト者であるならば、大いに自分と関係のある日です。なぜなら、キリストが死から復活されたことを覚える日だからです。イエス・キリストの復活は、まさに私たちの信仰のキーワードです。パウロは、コリントの信徒への手紙一15章1節で、「兄弟たち、私達があなた方に告げ知らせた福音をここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」と言って、続けて3節で、「最も大切な事としてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活した事…」とあります。つまり、イエスの死と埋葬、そして復活は福音の核心であり、イエスの復活を信じないキリスト者などと言うことはあり得ないという事です。そして、キリストの復活は、まさにダイレクトに信じる私たちに関係します。コロサイの信徒への手紙の今日のテキストに戻りますと、一節で、「さて、あなた方は」、つまり信じるわたしたちは、「キリストとともに復活させられた」とあるではありませんか。わたしたちは、これからいつか死にますが、もう復活させられてしまった。わたしたちが今読み続けているローマの信徒への手紙6章23節で、「罪が支払う報酬は死です」と読みました。罪が死をもたらすのです。この死とは、肉体の死も含みますが、それ以上に、神様と切り離されてしまっている状態です。その結果、わたしたちの生きる意味、存在する意味が無意味となってしまっている状態です。その事に気付いた人は、何とか罪の赦しを得ようと、あるいは生きる意味を見出そうと善行に励んだり、たくさんの寄付をしたり、あるいはいわゆる宗教にはまったりします。しかし、キリストを信じたわたしたちは、そのような事によって死に勝利するのではない、罪の赦しを求めるのでもない。もう、キリストともに復活させられてしまった。今までと全く違うものへと生まれ変わらせられてしまったということを聞いているのです。だからこそ、復活させられた者として歩もうではないかとパウロは励まします。一方では否定的に、地上のものに心を惹かれないようにしようではないかと言います。ここで地上のものとは、多くを所有することや、人々の尊敬や羨ましく思われることや、権力権威をもつことでしょうか。それらは、それ自身悪いものではありませんね。しかし、心を引かれるとは、引っ張られることです。それに目を止め、それを目的に生きる生き方に陥ることです。そうならないようにしなさいということは、キリスト者もその誘惑から自由では決してないという事です。聖書の中でも、デマスという人は世にひかれてキリスト者の仲間から去って行ってしまったと書かれています。それでは、引っ張られないようにするにはどうすればいいのか。心を引かれないように、引かれないようにと注意しているとかえって引かれるのは経験のあるところです。そうではなく、上にあるものを求めなさいとあります。目を上げて歩もうではないか。上を見て歩こうではないかという事です。そこには何が見えるのか。キリストが、神の右の座に就いておられるのが見えてくる。もう勝利して、父なる神様の右におられる主がそこにおられる。そして、3節に「あなた方の命は、キリストとともに神の内に隠されているのです」とありますように、そのように感じようが感じまいが既に神様とともにされていると言っているのです。実に、驚くべき言葉です。だから、現実は今見える自分ではなく、もうキリストのもの、神のものとされている自分こそが現実なのだという事です。だから、神様だったらどう思うだろうか。どうするだろうかと、祈り求めながら生きようではないか。これがパウロを通して伝えられる神様の言葉です。4節には、「あなた方の命であるキリストが現れる時、あなた方も、キリストとともに栄光に包まれて現れるでしょう」とあります。地上のものに心を引かれないために、もう一つはわたしたちのゴールを見つめることです。いつか、救い主キリストは、今度は勝利者キリストとしてもう一度来られる。その時こそ、復活に与った者としての自分が現れる。勝利の主とともに現れる。今は、弱く、みすぼらしく、もしかしたら地上のものに心引かれがちな自分かもしれない。しかし、そのような弱さから解放される時が来るのです。そして、それを少しでも前取りして歩みたいものです。主に祈りましょう。復活の命をいただきました。それは、まだ隠れているかもしれませんが、主が来られる時にあらわになります。でも、今、この地上の生活の中で、いわば小復活の経験をさせて頂く事が出来ます。誰でもキリストにあるならば古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったとあなたはおっしゃいました。復活の命、復活の経験。あなたとともに歩むという目的を与えられた命。そして、不可能と思われることが現実となる経験を味あわせて下さい、と祈りましょう。既に、伝道を開始してからの5年間で、そのような復活ともいうべき、不可能が可能になる経験をたくさんさせていただいています。一度は諦めなければならなかったこの教会の建物を使う事が出来るようになりました。4人で始まった働きですが、その時には全く知らなかった方がたくさん加えられました。牧師が昔開拓していたころの方が結びついてきました。今日も復活の奇跡が起き続けています。そして、わたしたちは主の再臨を待ち望みます。救い主イエスが誕生されたこと。十字架におかかりになり、死んで、葬られて、そして復活されたこと。そして、次の歴史の大イベントはイエス様の再臨です。それは、わたしたちの命が現れ、キリストとともに栄光に包まれて現れる時です。このイースターの朝、その時に思いをいたし、待ち望みます。教会の皆さんと、心を合わせて待ち望みます。

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