必要は満たされる マタイ 5:25-34

今日は、マタイによる福音書625節から34節から神様に聴きたいと思います。主は、「自分の命の事で何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体の事で何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃいました。飲むことと着ることは、まさに最も基本的な必要です。人の必要や欲求にはいくつかの段階があるそうですが、この二つは生存するために必要な事柄であり、生存するための最初の欲求です。そのことで悩むと言う事は、その後に来る人に認められたいとか、自分で自分を受け入れたいとか、そのような欲求についても悩む者だという事でしょう。イエス様は、飲むことと着ることを言う事によって、そこまでを含めて人の必要、欲求すべてについて語られたのだと思います。つまり、私たちは思い悩む存在であり、存在感、自分の価値というようなものを求めて思い悩むものなのですが、それに対して主はズバリ、「思い悩むな」とおっしゃるのです。そんな事が出来るのだろうか。人は思い悩むものであるならば、思い悩むことこそが人の特徴であるとするならば、主のおっしゃっていることは無理があるのではないか、矛盾しているのではないかと、そんな風に思われるかもしれません。それなのにイエスは32節で、「それらはみな、異邦人が切に求めているものだ」とおっしゃいます。すべての人ではなくて異邦人だというのです。ここで異邦人とは神様を知らない人、あるいは神様を知らない状態、離れている状態の事を言っています。彼らは人としての全ての欲求について不安であり、思い悩む、つまり心がそのことに支配されて、縛られて、また振り回される。いや、キリスト者であっても神様から目を離すならば異邦人になってしまうとおっしゃるわけです。イエス様は、この人としての根源的な不安、思い悩みの問題に答えを与えておられます。それは、神様に目を向ける事だと言われます。でも、神様は見えない、声が聞こえてくるわけでもない。それならどうするか。鳥や花、つまり自然の世界を見てごらんと言われるわけです。私たちの周りに鳥の声がします。花が咲いています。彼らは、生きていくのは大変かもしれませんが、思い悩んではいません。鳥は餌をため込むことはしません。神様が日々の糧を与えてくれることに期待しています。そして、神様は鳥たちの必要を満たしておられます。花は、自分の所に虫が来てくれるだろうかと思い煩う事はありません。神様がそれぞれの花にかたちを与え、色を与えて必要な昆虫が授粉に来てくれるようにしておられます。イエス様は、その鳥と花をよく見なさいと言います。私たち人は、鳥や花よりも価値のあるものではないかとおっしゃいます。確かに、鳥も花も価値あるものです。しかし、人は神様に祈り、礼拝する最高の被造物として造られました。神様は一人一人の人を特別の思い入れをもって、それぞれ違うけれどもそれぞれに最高の価値のある者として、まさに作品として造られました。だから、鳥や花よりも価値があるのです。鳥や花に必要を満たしておられる神様がわたしたちに無頓着であるはずがないとイエス様は語られました。また、もう一つの視点からわたしたちに思い悩むなと語られます。私たちが思い悩んでも事は解決しないという事です。「思い悩んだからと言って寿命をわずかでも延ばすことができようか」と言っておられます。なるほどその通りです。思い悩みには力があります。私たちを振り回す力、縛る力です。確かに、何とかしよう、頑張らなくっちゃ、という事で例えば仕事を一生懸命にして収入が増えたり、より大きな仕事を任されたりということで自分の価値を感じることができるかもしれません。しかし、それは一時の事で思い悩みはすぐに戻ってきます。もっと、もっとという事で、切りがありません。思い悩みの解決策は、そこにはないのです。イエス様は、自然から学びなさいと語られた後、もう一歩進んでこう言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。何よりもまずです。第一に、他の物はさておいてという事です。私たちは、まず生活が保障されて、少し余裕がある所で聖書でも読もうか、イエス様を信じてみようかと思ったりします。しかし、それは違うとおっしゃるのです。第一の事として神の国と神の義を求めなさい。神の国というのは、神様の導き、保護、指針の事です。人生の主として神様を迎えなさい。神様に祈り、聴き、示されるところに従ってごらんなさい、という事です。神様に信頼してごらんという事です。また神の義とは何か。神様と仲直りしなさい、和解しなさいという事です。今、ローマの信徒への手紙を読み続けています。ローマ人への手紙のテーマは神の義です。人は、自分を神としていて神様と正しい関係にない。自分ならではの本当の価値を知らずに人を羨ましく思い、嫉妬し、また自分で自分をけなしている。このようなあり方を罪と言いますが、神の義というのは自分の行いや心構えでその罪を乗り越えようというのでなく、イエス様がその罪を引き受けて下さった、私たちが受けるべき罪の裁きを代わりに受けて下さった。死んで、復活して罪に、死に勝利して下さった。そのことを信じることによって神様と和解するのだ、和解するばかりでなく神の子として頂けるのだ、そのことが書かれた手紙です。そして、神の国と神の義を日々求め続けなさいと勧めています。イエスを信じた時、確かに救われ、罪が赦された。でも毎日罪を犯す私たちです。イエスを信じても毎日主の導きからそれてしまう私たちです。神の国からはみ出てしまう私たちです。だから、何よりもまず、神の国と神の義を求め続けなさい、そうイエス様はおっしゃっているのです。その時、これらの物、つまり基本的欲求である食べる事、着ることをはじめ、私たちの人としての欲求、自分は生きていていいのだということを確認したい欲求は、満たされるといわれました。神様との関係が鍵なのだ、神の国と神の義が鍵なのだという事です。神の国と神の義を第一として求める時、私たちは私たちを知ることになります。神様に愛されていること、神様が熱心に私たちを導いて下さっている事を知り、そこで自分の価値を知ることになるのです。主は最後に言われました。「明日の事は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」どういう事でしょう。それでも、あなたがたは思い悩むだろう。思い悩む事、思い煩いというのは、それほどに私たちに染みついたものなのだ。でも心配しないで良い。ただ、そのたびに私の言ったことを思い出しなさい。空の鳥を見上げ、花を見て私の言ったことを思い出しなさい。神の国と神の義を第一にしてごらんと言った私の言葉を思い出しなさい。何度躓いても良い。私は怒らない。がっかりしない。私は、あなたを引き受けたのだ。だから、心配しないで日々歩んで生きなさい。主は、そうおっしゃって下さっているのです。

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