忍耐 慰め 希望の源なる神 ローマ 15:1-13

今日は、ローマの信徒への手紙15章1節から13節を読みました。その中で、5節の「忍耐と慰めの源である神」という言葉に心が惹かれます。13節には「希望の源である神」という言葉もあります。源というのは、何かが始まるところのことです。高校生の頃、奥秩父の山々を縦走して、こちらから見ると山の向こう側に下山しました。その途中に小さい川の流れがあり、それが千曲川の源流だと表示がありました。本当に小さな流れですが、ここからあの豊かな千曲川になっていくのだなと思ったものです。あることが始まるところ、全体の源、それが源です。忍耐、慰め、そして希望の始まるところは神様だと思いをいたすことができます。ところで、この個所を原文で読みますと源という言葉はないのです。直訳すると、忍耐と慰めの神、希望の神となります。4節に「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とありますから、これを受けて“源”という一語を入れたのでしょう。ですから、この訳は誤訳というわけではありません。でも、“源”を入れないで訳すと、ちょうどヨハネの手紙一4章8節にある「神は愛だからです」という言葉がとても強い印象を残すように神様は忍耐、慰め、希望そのものなのだというとても強いインパクトのある表現になると思います。さて、神は忍耐の源だ、神は忍耐そのものと言っていいほどに忍耐深いお方だ。忍耐は、神様の変えることのできない御性質だ。私たちは、聖書の最初からそのことを知らされます。アダムとエバは神様と食べない約束をしていた木の実を食べてしまいました。食べるならば死ぬ、つまり神様との関係は一切なくなってしまうと言われていました。しかし、神様は、彼らを諦めずにやがて救い主を送る約束をしてくださいました。彼らに子どもが、孫が、子孫が生まれてきました。その約束は言い伝えられていたのですが、ノアという人の時代になると人々は神様から遠く離れ、地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い図っていたとあります。神様は、とても心を痛められましたがすべての人を地上から消し去ることをせずにノアの家族を残されました。その後、イスラエル民族をご自分の民としてすべての人に真の神を伝える使命を与えられましたが、彼らはしばしば神様に背いてしまいます。奴隷にされていたエジプトから解放されたときは大声で神を賛美しますが、約束の地に向かう途中に、早くも飲み水がない、肉がないと愚痴をこぼします。そればかりか、神様はエジプトに墓が十分にないから自分たちを導き出したのではないかなどとすら言い始めます。それでも忍耐の神は彼らを導き、約束の地に導き入れます。しかし、しばらくして周りの国々に王様がいるのを見ると自分たちも神様を王とするのではなく人間の王様が欲しいと言い出します。神様は、ついにその求めを受け入れますが、そのために彼らは苦しむことになります。国は分裂し、半分は滅亡してしまい、残りの半分も、ついに紀元前586年、バビロン帝国によって滅ぼされます。それまで、何度も神様は預言者を送って悔い改めて神のもとに帰るようにと言いますが、彼らは聞きませんでした。しかし、神様はバビロンを滅ぼしたペルシャ帝国のクロスという王様の心を動かして彼らがカナンの地に帰ることを許すようにします。本当に神様は忍耐そのものです。そして、2000年ほど前に神の子、救い主イエス・キリストを送ってくださいました。人々はどうしたでしょうか。神の忍耐に感謝し、救い主をお迎えすることをしませんでした。ローマ帝国から解放してくれる政治的、軍事的、経済的な救い主は期待していましたが、罪を赦して神様のもとに導いてくださる救い主は、ただ当時の社会的、宗教的な秩序を乱す人、自分の利権にとって不利益をもたらす人としか考えなかったのです。もうここまでやって、御子キリストまで送って、もう神様といえども堪忍袋の緒が切れただろうか。そうではありませんでした。むしろイエスにおいて私たち人間の罪を裁き、復活によって赦しを確かなものとして下さいました。教会をたて、神の愛と赦しを伝える使命を与えられました。教会の歴史にも汚点がたくさんあります。しかし、神様は忍耐し続けてくださっています。まことに神は忍耐そのものの神です。そして、神様が忍耐の神であることに慰めを見ることができます。慰めるとは、特に心の悩み、苦しみについて元気づけることだそうです。私たちの心が元気を回復するのは、どのようなときでしょうか。赦された時、赦されて心の重荷が取り去られた時ではないでしょうか。神は、キリストは、分かってくださるのです。忍耐してくださるのです。私たちの弱さに同情できない方ではないのです。罪を犯されはしませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に会われたのです。だから、「憐れみを受け、恵にあずかって、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とヘブライ人への手紙4章15節、16節に書かれています。大胆に近づくことができる。このままの自分で。なぜならば、神様は忍耐の神であり、恵の神だからです。そして、希望の神です。神は、忍耐深く私たちを受け入れてくださり、赦してくださり、慰めてくださるにとどまらず、希望を示してくださいます。イスラエルにとっては、最終的に、誰かが追い出されて国を失う犠牲を払い、そのために恨みと憎しみの裡にではなく平和の裡に国が与えられること、これが希望です。どんな政治家も、どこかの国の調停によっても成し遂げることはできません。それを成し遂げることのできるお方は神様だけです。神にのみ希望があります。だから希望の神なのです。私たちにとっては、罪から完全に解放され、救い主イエスにまみえる希望です。罪の性質はなくなり、その意味で全く新しくされます。その希望が、私たちにはあるのです。神は、忍耐、慰め、そして希望の源です。源は始まりと言いました。そこからの広がりがあります。それは、どこに広がっていくのでしょうか。私たち信じる者に、です。私たちは、決して忍耐深くありません。忍耐とは異なるもの、対立するものを受け止めることです。私たちは、そのことが苦手です。すぐに裁きたくなるのが人の性質です。でも、裁きたくなった時、神様が源であり、私たちは、そこにつながっていることを思いましょう。祈りましょう。神の忍耐に与らせてくださいと。そして、慰めについても源につながっている。自分を慰めることも大切です。大丈夫。すべては、神様の御手の内にある。それがキリスト者が自分に言うことができる慰めの言葉です。元気づける言葉です。そして、それは真実です。その言葉は空虚な言葉ではなく、神に源を持つ言葉だからです。神が与えてくださった希望に生きましょう。今日は大切。人生は大切。でも、死んで終わりではありません。日々罪を犯し、がっかりします。でも、やがて罪から解放される希望の約束に目を注いで悔い改めましょう。その希望に目を注いで、初めて本当の悔い改めができます。その希望は空約束のようなものではありません。なぜなら、神に源を持つ希望だからです。

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