怒りの器 憐みの器 ローマ 9:19-33

この聖書箇所は、神は不公平なのだろうかという問いかけから始まります。18節に言うように神は自分が憐れもうと思うものを憐れみ、かたくなにしたいと思うものをかたくなにされるのなら、もう誰が憐れまれるのか決まっているではないかと問うのです。しかし、この御言葉の背景になっている出エジプトの時代のファラオについて出エジプトを読んでみると「頑なにされる」という事がどのように起こったのかが見えて参ります。神様はイスラエルの人々を奴隷状態から解放するために、また、実は同時にナイル川でもなく、太陽でもなく、ご自分が唯一の神であり、したがってエジプト人の神でもあるのだということを表すために10の災害を起こされます。なぜエジプトの為でもあったのかは17節に、神様がご自分の名をイスラエルだけでなく、エジプトすら越えて全世界に告げ知らせる、つまりご自分が神であることが分かるようにするためだったと書かれているからです。この十の災害が起こる中で、はじめのうちはファラオは自分で心をかたくなにしました。つまり神を拒んだのです。最初の七つの災いの時についてはファラオの心はかたくなになり、または心を頑迷にして、とあります。八つ目の災いに至って初めて主がファラオの心を頑迷にして、と書かれているのです。つまり、御自身が神であることを何度現わしても心を頑なにして拒むファラオは、ついに主によって頑迷にされてしまった、ということなのです。神は人に自由な意思を与えたまえました。神の言葉を拒み続けるならば、ついに主はその人の意志を尊重し、そのままにされるということでしょう。つまり、わたしたちは聖霊の働きかけによって御言葉に心を動かされますが、同時に神を拒むことが出来るのです。コリントの信徒への手紙一12章3節にありますように、誰でも聖霊によらなければイエスを主と告白する事が出来ない。その通り。と同時に、自分によってイエス様にノーという事が出来るということでしょう。それがマタイによる福音書12章31節に言う聖霊を汚す言葉(口語訳)なのです。さて、ローマの信徒への手紙9章に戻りましょう。22節に、かなり衝撃的な言葉が語られています。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びる事になっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐みの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」。なぜ衝撃的と言ったかといいますと、誰かはもう最初から怒りの器として生まれて来て、滅びることになっていて、それでも寛大な心で耐え忍ばれるなんて趣味が悪いのではないか。神様が創造主であるのだから、そもそも怒りの器などと言われる人を造らなければいいのではないか。そして、その寛大さによって憐みの器とされている人に豊かなる栄光が示されるなんておかしいじゃないか。まるで引き立て役として怒りの器と言われる人が造られたみたいじゃないか。あまりに悪趣味じゃないかと思うのです。しかし、その時にわたしたちはひとつのことを忘れています。それは何かというと、わたしたちはすべて怒りの器なのだということです。エフェソの信徒への手紙2章3節に「わたしたちもみな・・以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべきものでした」とあるではありませんか。つまり、神様は、怒り受けるべき器である私たちを忍耐をもって耐え忍ばれ、聖霊なる神様が聖書の御言葉や先に恵みにあずかったキリスト者の証しや出来事を用いて語り続けて下さった。怒りの器に憐れみをかけ続けられたということなのです。イエス・キリストがこの世に来て下さったことがその事実の最大の証しです。イエスは、怒りを受けるべき子らの中に生まれてこられたのです。怒りを受けるべき子らの、その怒りを身に引き受けて裁きを受けて下さったのです。今も、イエスが来て下さった。罪の裁きを受けて下さった。死んで、葬られ、三日目に甦られたという福音。イエスにおいて罪は赦されたという福音が述べ伝えられています。そして、聖霊なる神様はその福音を携えて働き続けて下さっています。神様は寛大な心で耐え忍んでいて下さっています。ペトロの手紙二3章を読みますと、その手紙が書かれた当時、すでに主の再臨の約束はどうなったのだ、遅いではないかと信仰者を非難する人がいたようです。それに対して「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたの為に忍耐しておられるのです」と語っています。神様は怒りの器が滅びるのを望んでいるのではありません。悔い改めて救われることを望んでおられます。そして、悔い改めて主を信じた人にご自分の豊かな栄光をお示しになるのです。パウロも以前は怒りの器がいて、憐みの器がいるという二分法でものを考えていました。怒りの器は異邦人であり、憐みの器はユダヤ人でした。怒りの器は“彼ら”であり、憐みの器は“わたしたち”でした。しかし、24節を見ますと「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して下さいました」とあります。この手紙を書いているパウロにとって、もはや私たちはユダヤ人のことではなく、主イエス・キリストを信じたユダヤ人、そして異邦人です。パウロの“わたしたち”は、もはやユダヤ人も異邦人も超えた信仰者のこととなったのです。そして、実は、それは最初から神の計画だったと25節から旧約聖書を引用して証しています。25節はホセア書の言葉です。ユダヤ人にとって異邦人は神の民ではなかった。しかし、神様は異邦人を私の民と呼ばれ、生ける神の子らと呼ばれる。次にイザヤ書です。イスラエル人の血が流れているから神の子だ、特別だと思ってはならない。そうではなく残りのものが救われるのだ。残りのものとはイエスを信じるイスラエル人のことです。信仰によって神の民とされるのであってイスラエル民族の血によるのではないということです。そして、さらに神様がユダヤ人の中に信仰者を起こしていなかったらユダヤ人はみんな滅んでしまっていただろうといいます。これも、血によるのではない、信仰によるのだということを伝える言葉です。信仰は行いによるのではない。信仰によるのだ。これが30節から33節にある結論です。
人は皆怒りの器。しかし、神様はその怒りの器を惜しまれ、愛され、御子イエスを救い主として送ってくださいました。主の救いを受け入れることによってすべての人が、ユダヤ人も異邦人も、性に関係なく、過去に関わらず、現在どのような自分であるかにかかわらず憐れみの器として下さいます。そして、憐みの器とされた、その人を通して神様が豊かにご自分の栄光を表されるのです。

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