悔い改めにふさわしい実 ルカ 3:7-14

この時バプテスマのヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯で罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。新改訳聖書によると「悔い改めに基づくバプテスマ」を宣べ伝えていたとあります。バプテスマのヨハネは毛の衣を着て荒野に住んでおり、日本流に言えばいかにも修行者といった様子です。大きな声で力強くメッセージをしており、とても目立つと言いますか、人々の関心を引いていました。この人からバプテスマを受けたいということで、群衆が彼を囲んでいたと7節にあります。行ってみればスター、アイドルのような存在というか、彼は人気者です。ぜひ、彼にバプテスマを授けてほしい、そんな感じです。ところが、彼は「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りをまぬかれると、誰が教えたのか」と。そして、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と一喝したのです。せっかくバプテスマを受けたいとやってきた人々を拒否したのです。なぜか。彼らには、悔い改めがなかったからです。当時、バプテスマ、つまり水に浸かって沐浴をして身を清め、罪を清めることはよくされていることでした。それは、ちょうど日本の行者が滝に打たれたり冷水を浴びて身と心を清めるような感じです。悪い思いや行いから身を清めるという意味はありますが、悔い改め、つまり方向転換という観点がありません。今までの生き方、神様から離れ、自らを中心にしていた生き方を変えて神様を中心に、たとえ自分の意に添わなくても神様の御心に従おうという生き方への転換という観点がありませんでした。バプテスマのヨハネが指摘したのは、そのことです。正月には、神社などに行って願い事をし、お賽銭を投げ入れます。仕事が見つかりますように。良いパートナーが見つかりますように、商売繁盛、家内安全・・。つまり、自分が欲しいものを願い、自分が生きたいように生きられることを願います。ヨハネのところに来た人々もそんな思いの中で、自分の願いが叶うことの妨げになる汚れを清めてもらおう、そんな思いのバプテスマでした。ヨハネは、そのままの彼らにバプテスマを施すことを拒みました。もとより、それではバプテスマにならないからです。バプテスマは悔い改めの結果、まさに、悔い改めに基づくバプテスマでなければならないからです。そして、悔い改めて、人生方向転換、神様に従う生き方への方向転換をしたならば、その出来事にふさわしい実を結べ。いや、当然、実を結ぶのだ、とヨハネは語ったのです。これは、私たちへの言葉でもあります。教会は、望めば誰にでもバプテスマを施すことはしません。今までに述べたように人生の方向転換、イエス・キリストを信じて神に帰り、神と共に歩むという方向転換をした人に授けます。それさえあれば、過去がどうであれ、現在がどうであれ、そんなことは関係ない。喜んで、感謝してバプテスマを施します。私も、皆さんもそのようにしてバプテスマにあずかりました。でも、ここから先、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと励まされます。さて、それでは“悔い改めにふさわしい実”とは、何なのでしょうか。ヨハネは三つ上げました。まず、分かち合う心です。11節に、「『下着を二枚持っている者は、一枚も持たないものに分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた」とあります。とても具体的です。二枚持っている者は、食べ物を持っている者は、とあります。出来ることを、でも、犠牲を払ってせよということです。献金は分かち合うことではありませんが、献金にも適用することができます。借金して献金することはないのです。絶対に十一献金しなければならないのではないのです。一生のうちには、それがどうしてもできないこともあるかもしれません。それならそれでいいのです。ただ、精いっぱい。だって、神様に救われたのですよ。罪を赦され、永遠の命を与えられたんですよ。神の子とされたんですよ。天の御国に行くんですよ。それなのに、惜しんでわずかなものを捧げる。それは、正しいことではありません。箴言11章24節に「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」(口語訳)とあります。この、分かち合うことは共感することです。その人の身になって感じることです。そういう意味では、心に寄り添おうとすることも悔い改めの実です。分かろうとすること。つらいだろうな、不安だろうな、苦しいだろうな、また、楽しいだろうな、この人が喜んでいることが私は嬉しい。そんな共感性です。ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」とあります。思いを分かち合い、受けとようとする心です。二番目は欲張らない心です。13節。「規定以上のものは取り立てるな」。徴税人への言葉でした。当時の徴税人は強欲だったのです。旨い汁をいっぱい吸っていたのです。そうしたくて、占領者に収める税金を同胞から取り立てる者として蔑まされることを知りながら徴税人になる権利を得たのです。ヨハネは彼らに規定以上のものは取り立てるなと言ったのです。つまり、欲張らないことです。イエス様は、マタイによる福音書6章33節に記録されているように、「何よりもまず、神の国と神の議を求めなさい」とおっしゃいました。そして、そうするなら生きるための必要は、みんな添えて与えられるからと約束されました。だから、欲張る必要はないのです。第一にあったように、むしろ分け与えるのです。それがなされるとき、必要を満たしてくださる神様を知ることになるのです。悔い改めの実の三番目は力を振りかざさないことです。14節に、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」とあります。これも、欲張らないようにという風に見えます。しかし、バプテスマのヨハネは、質問した兵士に答えたのです。彼は、神殿を守るユダヤ人の兵士だったと思われます。でも、もしかしたらユダヤ教改宗者のローマ兵かもしれません。いずれにしても、彼らは力を持っているのです。権力を背景にしているのです。人を支配できるのです。そして、しばしば権力を傘にして不当に金をとったりする人がいたのでしょう。そのような背景を考えるとき、ヨハネの言葉は強欲になるなというよりも、むしろ権力を振りかざすなということのようです。皆さんの中で、管理職の立場にある人がおられます。これからそうなる人もいるでしょう。管理職でなくても職場の後輩がいる方もいます。ちょっと間違うと牧師も力を持っていると錯覚します。しかし、力を振りかざすな。むしろ、そのような立場の人は仕えよ。マタイによる福音書20章20節以下を読みますと、二人の弟子と、その母親がイエスのもとに来て二人を権力のある地位につけてくれと頼む場面があります。その時イエスは、こうおっしゃいました。25節です。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕えるものになり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように」。私たちは、悔い改めの実を結んでいるでしょうか。人の心を聞こうと心がけましょう。分かち合いましょう。主にあることに喜び、満足しましょう。そして、力を振りかざすのではなく、仕えあいましょう。ところで、これらは実です。悔い改めの実は、聖霊の実です。神様が実らせてくださる実です。だから、神様に祈りましょう。主よ、私を悔い改めに導いてくださりありがとうございます。そして、悔い改めにふさわしい実を、聖霊の実を、今日も、明日も、さらに豊かに結んでいくようにしてください。

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