救いと栄えは神にかかっている Ⅱ 詩編62:8、ローマの信徒への手紙 5:1-5a

先週も同じタイトルでメッセージを取り次ぎました。この詩編2編8節のみ言葉は、救いは神にかかっている、そして、栄は神にかかっていると、二つのことが神にかかっていることを述べていました。その最初の方、救いが神にかかっていることを先週お話ししたわけです。そして、今日は、二つ目の栄が神にかかっているということを聴き取りたいと思います。あなたは、栄という言葉を聴いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。栄え、繁栄、成功と言い換えてもいいかもしれませんが、どんなことを思い浮かべますか。物に豊かなこと、美味しそうな物が並んでいる食卓、健康な体、心配事のない毎日…、そんなイメージでしょうか。確かに、繁栄しているお店、栄えている家庭というと、そんなイメージを思い浮かべると思います。すると、聖書はそのような繁栄を約束しているのだろうか。イエス・キリストを信じればお金はたまり、病気になることはなく、苦労しない人生を歩むことができる。そう約束しているのでしょうか。そうだとすると、その手形は不渡りばかりです。その日のやりくりに苦労しているクリスチャンがたくさんいます。長い間闘病生活を送っている人もいます。また、人間関係に悩んだり、仕事の事で悪戦苦闘しているクリスチャンがたくさんいます。そうすると、聖書はいい加減なことを言っているのか、それともなければ、ここで栄えると言っている、その栄とはいま申し上げたような栄と違う、別の栄、別の意味の豊かさというのがあるということになります。そして、正解は後者の方です。私たちが普通に考える栄を聖書は全く非難していない。しかし、それを栄とはあまり評価していないのです。本当の栄、本当の豊かさは、それではなく、他にあるよと伝えているのです。だから元気を出しなさい、私が本当の栄えを教えてあげるから、それが神様のメッセージです。ローマの信徒への手紙によれば、本当の栄とは希望があることです。本当の希望とは、今日のテキストの2節にあるように「神の栄光に与る希望」です。さて、これは大きな言葉で、一回や二回のメッセージで伝えることはできませんが、使徒言行録24章15節を見ると復活の希望と言っていいでしょう。神の栄光は、全能の力や、時間や空間を超えて「あってある」お方であることもそうですが、何よりも、そのような紙が人となって来られ、人と住まわれ、人の罪を負われ、死なれ、そして復活されたこと、逆説的ですが、死と復活にこそ神の栄光が最大限に現れている。その栄光に与る希望があることこそ人の栄だと神様は断言するのです。つまり、もっと身近なことでいえば、生きていれば踏まれることもある、自分でつまずき倒れてけがをすることもある、人に転ばされることもある、誤解されたり、見下げられたり、いや自分で自分を見下げたり、自分で自分を転ばせたり、いやはや、人間とは不思議な生き物で、そのような不条理の中に生きざるを得ない者です。しかし、その中で復活する希望、癒され、支えられ、立ち上がる希望がいつもあること、それが栄であり、それこそ、その人の強みでしょう。だから、あなたがイエスを信じているのなら、それがあなたの強みなのです。さて、この希望はどのようにして見出し、育ち、確かなものになるのでしょうか。それがローマの信徒への手紙5章3節から語られます。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。この希望は、暗さの中で光が輝くように、苦難の中で育つというのです。神様のなさることはいつもそうなのでしょう。天地をお造りになった時も、初め闇が深淵にあった、その状態で神は「光あれ」とおっしゃった、すると光があったと伝えています。一日も朝からはじまって夕べになるのではなく、夕べがあり、朝があったとあります。希望は、栄は、苦難の中から生まれてくる。なぜだろうか。苦難が忍耐を生むからです。私は、38年前よりも信仰的な意味で少しは打たれ強くなったと感じています。信仰を持った当初は、救われた喜びは大きいのですが、試練といいますか、チャレンジの中でどうしたらいいのかわからない状態でした。具体的には、サラリーマンだったのですが、上司の方たちが忠告してくれるのです。ちゃんと五時以降の付き合いもしないと、そこで情報交換したり、人間関係深めて。出世にも影響するぞ。私は、クリスチャンになってお酒の場での会話がちょっと苦手になったのエス。あまり聞きたくない話なども出てきて、距離を置きたかったのです。しかし、サラリーマンとしての私を心配してくださった上司の方は、このように忠告してくれました。いずれは牧師になるのだから、というつもりは、その時なかったですから、定年までその会社で働くつもりでしたから、上司の忠告はもっともだし、それに忠告に耳を傾けないのは心証を悪くするだろうし、ということで、それはちょっとしたチャレンジだったのです。聖書の言う苦難というほどではないかもしれないけれど、その時の私にはそれなりの苦難だったのです。そんな中で忍耐しました。忍耐というのは、ただ嵐が過ぎるのを待つことばかりではないことを、その時知りました。神様の言葉を、示す方向を忍耐して祈り続けました。そんな中で、やはり5時以降のお付き合いは控えようと決めました。お笑いになるかもしれませんが、それこそ神様にかけるような決心でした。すると、しばらくは避難ではないでしょうが、心配してくださる言葉を頂きましたが、やがてそれが変わったのです。石井は、一度決めると恐れないで実行する人だという前向きの評価をして頂けるようになったのです。恐れないで、というところはちょっと本島ではないのですが。しかし、そのような経験をいくつか積むことは、確かに練達を生んだのだと思います。神様のみ言葉に従うことへの不安が減っていきました。その3年ほど後に牧師になるようにという神様の召命を確信して会社を辞めることになるのですが、その決断はそれまでの経験、苦難が忍耐、忍耐が練達を生む経験のゆえにできたのだと思います。され、それから40年近くがたつわけですが、もう、この困難から希望へというレッスンは終了したかといえばとんでもない。今も試され、時には逃げ出してしまったり、でも逃げても別の困難がちゃんと待っていて、仕方がないではないですが、そこで祈って、祈って、神様の導きを待って、そして、「エイ、ままよ」と信仰をもって飛び込んで、つまり死んで、そうしたら復活の恵み、つまり新しい地平が開けて、ということの繰り返しです。でも、聖書によればそれが人の人生の栄だという。冷や汗もかくのに、脂汗もかくのになぜ栄なのだろう。それは、不信仰の冷や汗、脂汗をかきながらも神が共にいて下さることをそこで知る喜びがあるからだと思います。信仰とは不信仰との戦いです。全く不信仰がないのが信仰が強いということではないのです。不信仰な思いがあふれてくるけれど神様から目を離さない。いや、離れてしまってももう一度目を向ける。それが信仰です。そして、そのような信仰を神様は喜ばれます。そのような信仰者だけが、「私の救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある」と賛美することができるのです。

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