救い主がお生まれになった マタイ 1:18-25


今年は、今日を含めて4回のクリスマスメッセージをさせて頂きます。いずれも、マタイの福音書1章18節から25節から取り次がせて頂くことにしました。
今年は、この個所がすごく迫ってきているからです。この聖句は、イエスさまの誕生は何を意味しているのか、何が起ころうとしていたのか、何が起こったのかを知らせてくれます。そのことを味わいたいと思います。
この出来事の意味を23節は明確に告げています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」ここでいう名とは姓名のことではないでしょう。
なぜなら、21節でこの男の子をイエスと名付けなさいと言われているからです。彼は、イエスと名付けられたのであり、インマヌエルという名前を付けられたのではありませんでした。インマヌエルと呼ばれるというのは、この子は、この人はどのような人か、神様が私たちと一緒にいて下さるのだということをはっきりと示す、そのような人だと読み解くことができます。最近、神学校時代の友人がフェイスブックにこんな事を書いていました。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。というヘブライ人への手紙13章8節に言葉に続けて、イエス・キリストはアジアでも、北アメリカでも南アメリカでも、ヨーロッパでもアフリカでも、世界中どこでも同じで地上に住むすべての人を愛しているのです」この神学校はアメリカにある神学校で、この投稿をした級友もアメリカ人なのですが、おそらく彼は最近のアメリカの風潮に感じてどこの国の人であろうが、肌の色がどうであろうが、イエスさまはすべての人を愛しておられるのだと言いたかったのではないかと想像します。
でも一方で、私たちは人を分け隔てしがちだというのも残念ながら事実ではないでしょうか。強い人と弱い人、富む人と貧しい人、男性と女性、人種や国籍など、さまざまの区別をしてしまいます。そして、それは容易に差別につながったりします。しかし、神様は我々と共におられるのだ。この“我々”とは、あらゆる人を含んだ我々なのだという誰でもが口にしそうだけれども実は私たちの本性を超えたメッセージが伝えられているのです。さらに、その“我々”とは、どんな我々なのか。どのような人と神はともにいて下さるのか。創世記15章12節に「日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった」、とあります。森有正という人は、「アブラハムの生涯」という講演の中でこう言っています。「暗い、ドロドロした、恥ずかしい、人に見せられない、自分でも見られない、そんなものはないことにしている、ないように装っている、そんな自分。そのようなところで神は私とともにいて下さる。そのような暗いものがある故に我々は不安であり、自信がなく、人生の前にしり込みし、生きていていいという確信がつかめず、ひきこもっていく。そんなところで神は私と一緒にいて下さる。」森さんの解釈はやや創世記を象徴的にとらえすぎているように私には思えますが、おっしゃっていることは的を得ているのではないでしょうか。つまり、インマヌエル、神がともにいて下さるとは、罪びとである我々ともにいて下さるということです。だから、21節に「この方こそご自分の民をその罪から救って下る方です。」と伝えているのでしょう。ですから、この“我々”は、すべての人が、私も皆さんも、外を歩いているみんなが含まれているとともに、「あー、自分は、この我々の一人なのだ」と、気づくことが大切であり、
そのことに気付いて認めた人が我々なのだともいうことができます。その時に初めて、この御言葉は私たちに個人的に成就するのです。イザヤ書57章15節はそのことを「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」そこで私たちは、この神様、ともにいて下さる神様に出会い、さらに、ともにいて下さる神様を伝える使命に生かされる者としていただきました。私たちは、教会は、神様がともにいて下さるということを伝える使命を与えていただいています。どのようにして伝えるのか。共にいることによってではないでしょうか。そのために、まず私たちが、神様がどんな時にも共にいてくださることを味わうことが大切です。先日の礼拝で、ある方がこんな証しをしてくださいました。多摩市から千葉県のご実家に帰るときのことです。まず、最初の駅で、目の前で急行の扉が閉まってしまい、20分待つことになったそうです。「あー、残念」と思ったそうです。次に乗り換えるとき、あと2分で急行が出る。でも、買い物を頼まれていたのを思い出したそうです。その買い物をしていると急行に間に合わず、また数十分のロスが生じてしまいます。
「あー、なんてついていないんだろう」と、ちょっぴり腹が立ったそうです。
結局、ずいぶん待って列車に乗った。そして、数十分乗っていて外の景色はすっかり田園風景に代わりました。その時です。夕焼けのあまりの素晴らしさに自分の席を立ち、反対側の窓にへばりつくようにして見とれたそうです。その方はおっしゃいました。思ったように事が運ばなくてイライラしたけれど、神様はこの風景を見せようとしておられたんだ。今まで何回も夕焼けは見たけれど、この時の夕焼けは特別だった。本当に神様は創造者なのだと、心から感動して夕焼けを見るのは初めてだった。そんな証しでした。日常の、ちょっとした出来事です。でも、その中にも神様は共にいてくださることを見ることができる。そういう経験を味わうことが、人にも神様は共にいてくださるよと、言葉で、生き方で伝えることのできる土台になるのだと思います。私たちの教会のビジョンは、開かれた教会です。“我々”の教会ということです。いろいろな背景を持った人たち、富んだ人貧しい人、健常者も障がい者も含んだ我々です。その一人一人と神様はともにいて下さることを味わいたいと願っています。イエスさまの周りを囲んでいる人たちは実に様々でした。それをお手本に教会づくりをしています。地域の人々にも神様がともにいて下さることを伝えたい。
昨年7月から誰でも食堂を始めました。当初は子ども食堂として十分に食べることのできない子どもたちのためにスタートしましたが、思いがけず独り暮らしのご高齢の方もたくさん来て下さいましたので「誰でも食堂」としました。
今年のクリスマス礼拝には、誰でも食堂で召し上がっていただいている方のうち何人かが来て下さるようです。夏には近所の商店街の子ども夏祭りに出店を出して子どもたちとの交流を図っています。何人かにでも神様がともにいて下さることをお伝えしたいからです。11月からキッズ・クラブを始めました。
子どもと子育てをするお母さん、お父さんの場です。子育てで疲れ、悩んでいる方が多いのです。そのような方と時をともにし、お話を伺い、神様が一緒にいて下さることをお伝えしたいと願っています。でも、これらの働きの土台になるのは、一人一人が、神様が共におられる事に気づき、味わうことです。神様が、私たちにそのことに気づかせてくださいますように。イエスさまがご誕生された。私たちのところに来て下さった。それは、神様は私たちとともにいて下さる。どんな私でもともにいて下さる。そのことを伝える神様の出来事だったのです。そのことを味わい、感謝するクリスマス・シーズンとしたいと思います。

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