教会の力 使徒 1:3-5,2:1-13

使徒言行録の1章3節、4節、そして2章の1節から13節を読みました。今日はこの個所から教会の力の源は何なのか、そして来週は、2章後半から祝される教会となる秘訣を神様に聴きたいと思います。何事にも力が必要です。事業を行うには人の力、そして資金というお金の力が必要です。朝ドラの「半分青い」をご覧になっている方も多いかと思います。わたしは見たり見なかったりなのですが、主人公の幼友達なのか恋人なのか、なんだかよくわからない人が自然の風に近い扇風機を開発しているみたいです。発想もよく需要もありそうなのですが、資金が足りなくてなかなか製品化できないみたいです。子育てをするには周りの人の力もないと、なかなか大変なようです。病気と闘うにもお医者さんの力、家族の力、そして本人の精神的な力や治癒力が必要です。教会にも力が必要です。教会を立ち上げる力、維持する力、成長する力。それは、霊的に立ち上げ、維持成長することであり、また、人数は問題ではないとも言われますが、しかしより多くの仲間と信仰生活を共にしたいと願うのも自然な事です。そういう意味で、数というか、規模の面での成長の力も必要でしょう。また、私たち一人一人が信仰生活をするにも力が必要だというわけです。教える力、学ぶ力、励ます力、慰める力、諭す力、事をなさしめる力、励まされる力、慰められる力、諭される力、すなわち素直さと謙遜・・と、いろいろな力が教会を成り立たせます。それらの力の源は何なのだろう、と思います。そして、今日の聖書個所は、その問いに答えてくれています。今、私たちはある教会の出先機関、会社で言えば支店のような立場から一つの独立した教会になろうと準備を進めていますが、そのような時に教会の力、エネルギーの源を確認するのは大切なことだと思います。まず、教会の力は何ではないのかを問い、そして、それは何なのかを聴こうと思います。教会の力は何ではないのか。それは、人の力ではありません。確かに素晴らしい開拓伝道者がおられ、または、何代目かの牧師が非常に優れた牧師でカリスマ性があり、その人の力で教会がぐんぐん成長しているという事があります。しかし、その場合でも、その人の力を源としていると、その力がなくなった時、その伝道者なり牧師なりが他の教会に移ったり、引退したり、または亡くなった時に、それまでと同じように力を保ち続けるかというとそうでないようです。事実、使徒言行録4章13節を見ると当時の有力者たちはイエスの弟子たちが“無学で普通の人”である事に驚いたとあります。無学で普通の人だったかもしれないが胆力だけはあったかというと、そうでもないようです。イエスの裁判の現場にいたペトロは「あなたはイエスの弟子でしょう」と聞かれて恐れをなし、3回否定しました。そもそもほとんどの弟子たちはイエスが捕まってしまうと、まさに雲散霧消、みんな逃げてしまっていました。そんな人たちです。こんな話があります。イエス様が、ある時、福音伝道の働きを始めようということで経営コンサルタントのところに行きました。事業計画書と弟子たちの履歴書を渡すと、一週間後に来るように言われたそうです。そして、一週間後にイエス様が訪ねるとコンサルタントは、このように言ったそうです。「いろいろ分析、検討させていただきましたが資金が全くないようですね。それに、どうも弟子さんたちが…。みな平凡なというか、はっきりいってそれよりも劣るように思うのですが。一人を除いて」。そして、その一人とはイスカリオテのユダだったとのことです。初代教会もそうでした。コリントの信徒への手紙一1章26節には、「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません」とあります。弟子たちはもともとは漁師や収税人、あるいは熱血と言えば聞こえはいいけれど、すぐに頭に血が上り向こう見ずなところのあるかっこつきの愛国者だったのです。時代は下って、特にわたしたちの先輩バプテストたちは、神学教育を受けて、国や教会の許可を受けた人しかメッセージをしてはいけない時代にあって普通の市民であり、奴隷であり、使用人である人もたくさんいたのです。たとえそうでなく、超一流のビジネス感覚をもった、人間力も備えた、そのような人であっても、そもそも神様の御用という分野では、それらでは足りないと言いますか、そのような人たちに与えられた賜物、才能は用いられる事が出来るでしょうが神の御用を推進していく力そのものではないのです。その賜物を生かす力、源となる力が他にあるのであり、その力さえあれば、何も特別優れた才能なりを持つ人でなくても、そのような人以上に神に用いられる事が出来るのです。それでは、その力とは何か。教会の力とは何か。ズバリ、聖霊の力です。1章4節を見ると、イエス様は地に残される弟子たちに待つように言われました。復活のイエス様を目の当たりにして勇気百倍、すぐにでも福音を語りたくてうずうずしていたかもしれません。しかし、イエス様は彼らに待つように言われたのです。何を待つのか。聖霊が来るのを待つようにです。ヨハネの福音書14章17節を見ますと、聖霊は真理の霊だとあります。そして、その聖霊がすべての事を教え、イエスが話した事を思い出させて下さるとあります。15章26節には、聖霊が罪について、義について、裁きについて世に知らしめるとあります。伝道の主役、教会を立て、成長させ、そこに集う一人一人を導くのは聖霊様だという事です。聖霊こそが、教会の力、神様ご自身こそが教会のエネルギーの源だという事です。その事をエフェソの信徒への手紙1章19節と20節には、このように語っています。「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に就かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上におかれました。」そう、聖霊こそが、神様こそが力の源なのです。さて、源は分かりました。でも、その源と私たちがつながらなければなりません。電気はそこまできていても、コンセントを差し込まなければ電気製品は役に立ちません。どのようにしてつながるのか。まず、自分の力に対する信仰。教会に対する信仰を捨てる事です。自分の、教会の力、能力、財力…。それらが10だから10以上の事は出来ない。そう考える必要はありません。ふつうは、持っている物を見て何が出来るのかを考え、決めるのでしょう。しかし、神の国では逆です。何が神様の御心なのか、神様は何をしようとされているのかを祈り求め、明らかになったならば、自分の使命が明らかになったならば信仰というプラグをつなぐのです。そうすると、神の力が奔流のように流れ込んでくるに違いありません。流れを阻害するのが罪です。不信仰や怒り、嫉妬、自己中心などに気付いたならば、悔い改めましょう。また、教会が和合していることも大切です。和合というのは、考えや意見が同じという事ではありません。いろいろと違っていたり、お互い反対する意見があるかもしれません。口角泡を飛ばして議論するかもしれませんが裁き合わない事です。一人一人が祈りとディボーションの生活を確立する事です。しっかりと神様との時間を取る事です。私たちが集まり、大いに雑談して、楽しみ、それと同時に困っている事、不安に思っている事を分かち合ってお互いの荷を負い合う事、祈り合う事です。その時に、教会の力の源である聖霊なる神様は、人間的な言い方をするならば自由闊達にお働きになる空間を得るのです。そこに、祝福が生まれるのです。

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